あの人は、決して私の手が届かない人。

望んではいけない人。

だからこの想いは永遠の片思いになるはずだったのです。

あの時までは……。



家の通草も鮮やかな紫色に付き、そろそろ収穫の季節となったあの日、一通の往復ハガキが届いた。そろそろだろうと思ってはいたけれど、決して届いては欲しくなかったのに。きっとこの実が熟して、収穫するのにちょうどいい時期がその日なのだろう。
私は返信部分を書き終わると、出かける準備を始めた。いつもよりも気合いを入れて、けれど厚化粧にならないよう注意してメイクをし、服はそれに合わせた。出かける準備が整うと、部屋の隅にある仏壇へと向かった。

「お父さん、お母さん……。やっとこの日が来たよ。私、ちゃんと約束守ったよ。もう会いに行っても……いいよね? 罰はあたらないよね?」

この時の私はひどく悲しげに見えたと思う。生憎、この家には私しかいない。慰めてくれる人は遠い昔に亡くしてしまったのだから……。

仏壇のそばにある写真立てには、当時十三歳だった私と三つ上の兄、お父さんとお母さんの家族四人で撮った最後の写真が収められていた。その写真には、今では考えられないくらいの明るい笑顔が溢れていて、約八年もの月日が経ったのにもかかわらず今でも胸を締め付ける程だった。

「じゃぁ行ってきます」

写真にそう告げると写真立てを静かに倒し家を出た。ハガキによると彼の家まで徒歩で十五分程度で着くはずだ。



彼の住むマンションに着くと、セキュリティーロックを外してもらい中に入った。彼はこの九階建てマンションの八階に住んでいるらしい。彼は部屋の前で待ってくれていた。

「久しぶりだね」
「そうだな」

にっこりと笑いそういうと、彼も優しく笑ってくれた。久し振りに見るその顔は私が知っている彼の笑顔とは遠くかけ離れているように思えた。

「何年ぶりだっけ?」
「えっと…五年半ぶり……かな??」
「もうそんなに経つのか……」

苦笑気味にそういう彼が、なぜか悲しそうに見える。

「どうしたの?」
「いや、何でもない。で? 今日はどうした?」
「ハガキが届いてたから…。持ってきた方が早いと思ったの。ポストの方が遠いしね。迷惑…だった?」
「そんな事ないよ。わざわざありがとな」

 鞄からハガキを出して渡すと、彼は私の頭をポンポンと叩いた。

「せっかくだから上がっていくか?」

 彼が家の中を指して言うとほぼ同時に中から一人の女性が出てきた。

「お友達? どうぞどうぞ上がっていって?」

 そして半強制的に私を家の中へと招き入れたのだ。後ろの方から彼がその女性を咎めるような声が聞こえたが、彼女は聞く耳を持たずに私を部屋の中へと案内する。そこはとてもマンションとは思えない程の広さを持った、清潔感の漂った綺麗な部屋だった。

「好きなところに座って? あっ、お酒あったっけ??」

 忙しそうに動き回る彼女は笑顔がとてもかわいい人で、私とは全然違うタイプの違う人のようだった。〝見ていて飽きない〟という言葉が彼女にはぴったりである。

「お酒買ってくるね!」

 彼女は嵐のように部屋を出て行った。彼女がいなくなると無言が続き、私が口を開くより先に彼の口が開いた。

「ごめんな。騒がしい奴だろ?」

 彼は苦笑して私ではなく彼女が出て行った方を見ている。

「俺の知り合いとかあいつに会わせた事ないからきっと嬉しいんだよ。まぁ、普段も騒がしいっていえば騒がしいんだけど…。いい奴だからさ、お前もきっと」

 私は彼の言葉を遮って言う。

「だから私に会わせたかったの…? 会わせたかったから、わざわざ部屋を買ってまでここに引っ越してきたんでしょう??」

 私の言葉に彼は口を閉ざしてしまった。真実を問うように見つめる私に観念したのか、ゆっくりともう一度口を開いて小さな声で言った。

「……それも…ある……。けど…一番は会いたかったから……。でもここは昔住んでて…前から持ってたんだ!わざわざ買ったわけじゃないっ!」
「え……?」

 思考がついていかなかった。彼は私に会いたかったと言ったのだ。そしてこの家に昔住んでいたと。混乱してしまった私の目からはいつの間にか涙があふれていた。

「ごめん、いきなりで驚いたよな。ごめん……。ちゃんと説明するから…」

 私を抱きしめ、優しく頭を撫でながら落ち着くのを待ち、今までの経緯を教えてくれた。


 大学一年の冬の留学は半年だったそうだ。帰国してから少しの間ここに住んでいた。けれどすぐ私のいた親戚の家の近くに引っ越してきて、私の事を見ていたらしい。当時の私は、あの家でひどい扱いをされ汚された。彼もそのことにうすうす気づいていたというのだ。しかし私の前には姿を現すことはなかった。そして高三の春、私が親戚の家を出て実家に帰ると同時に彼も引っ越しをした。
 彼女とは大学三年の大学祭で知り合い、今に至るらしい。


「じゃぁ…」

 私が口を開いた瞬間、玄関の方から慌ただしい音と陽気な鼻歌が聞こえてきた。彼は私を放し、彼女を迎えに行った。楽しそうな会話が戻ってくる前に私は笑顔の準備をして、彼らを待つことにした。
 彼女はどう考えても三人では飲み切れない程のお酒とおつまみを買ってきていて、彼に注意を受けているようだった。



 それからは三人でいろんな話をしながら飲んだ。でも彼女は決して私たちの関係には触れてこなかったのだ。
 明るかった外もいつしか真っ暗になっていた。三人ともお酒に強いのか、半分以上のビンやカンが開いたのにピンピンしていたが私はそろそろ帰ろうと思った。

「私、そろそろ帰るね?」

 そう言って立ち上がり挨拶をすると、彼女はお見送りをしてくれた。そして外に出た時、私にこう言ったのだ。

「ねぇ…、妹さん……なんでしょう?」

 私は急に出た〝妹〟という言葉に目を見開き硬直してしまった。どうなんだと彼女の目が私に訴える。

「どうして…そんなこと思ったの?」
「彼が妹さんの話をしている時に似てる気がしたから…。でも何となく普通の兄妹にしてはおかしいなって思った。雰囲気とか……。違ったらごめんね」

 私は肯定も否定もせずに、彼女の話を黙って聞くことにした。

「あのね、彼が前に言ってたの。大好きな人がいたんだって」


彼女は遠慮がちに私を見て、話を続けた。

「でも決して結ばれてはいけない人で……けど諦められなかったって。忘れようと思って留学しようとしたけど結局忘れられなくて、いつも遠くからその人の事を見てたんだってさ。素敵なプラトニックラブだよね」

 空を見上げながら彼女は言う。彼女の横顔がとても切なそうに見えた。

「私、その人が羨ましい。もう一生会えない人だって彼は言ってたけど……。でも彼は絶対にその人の事忘れない。彼はその人と一緒になりたかったはずだもの」
「だけど彼はあなたを選んだ。そうでしょう?」

 彼女とは対照的に、私の心は冷え切っていた。

「私の大好きな人はみんな私から離れていったわ。あなたは傍にいてくれる存在がいる。違うの?」

無言で悲しげな瞳を私に向けてくる彼女とこれ以上一緒にいたくなかった。私だったら、彼女の位置にいられるだけでどんなに幸せだっただろうか?なのに彼女はまだ足りないと不満を私にこぼす。私の中で静かに怒りの炎が燃え上がり始めるのを感じた。

「そろそろ戻らないと彼、心配するんじゃない? 私、帰るね」

あえて明るい声色でそう告げ、私は彼の家を後にした。その後の家に着くまでの記憶はほとんどない。気がつけば、彼がさっき残ったお酒類を持って私の家にきていた。

「どうしたの?」
「あいつがさ、家にあっても飲み切れないから持って行ってやれって。渡すの忘れてたんだと」
「そっか。わざわざありがとう」
「上がってもいいか? これ、結構重たいし」

彼を家の中に通した。

「昔と何も変わってないんだな。母さん達がまだいるみたいだ」

 家にある家具等をみて彼は言った。それもそのはずだ。私は家族四人で暮らしていた時と何一切配置を変えずに生活をしているのだから。
 彼は冷蔵庫に持ってきたものをしまってくれた。けれど、その後彼はうつむいたまま動かなくなった。不思議に思った私が近付いた瞬間、私は彼に抱き締められていた。耳元で彼は言う。

「俺……今でもお前が好きだ」
「え??」

 私にはいったい何が起きているのか、思考がついていかなかった。

「あいつに言われた。今日の俺は前に言ってた大好きな人の話をしていた時の俺に似てたって。それから…必ず戻ってくるなら、お前の所にいってこいって」
「良い…奥様じゃない」
「あぁ。でもまだ籍は入れてないんだよ。式が終わってからにしようと思ってるから…」
「そっか」
 
そして沈黙が流れた。尚も彼は私を抱きしめたままでいる。

「彼女に……妹と愛し合っていたって言ったの…?」

 彼は驚いたように私を放して見つめた。私は答えを催促するかのように優しく微笑む。

「言ってない」
「そっか…。」

 心配そうにに私を見つめる彼は、一緒に親戚の家で暮らしていた時のようだった。いつも私を庇ってくれて、私を心配してくれていたあの時の…。

「彼女、知ってたよ。私たちがきょ…」
「もう何も言うな」

 彼は私の言葉を遮るようにして言い、強く抱きしめた。

「けど、プラトニックだって思ってるみたい。当たり前だよね、だって…」

静止しない私の口を彼の唇が塞ぐ。久し振りの彼とのキスは半ば強引なものでも心地よかった。それから彼は私を抱き上げて私の部屋に連れて行き、そこで一つになった。

「ねぇ、覚えてる? 初めての時のこと」

 私は肩まで布団をかけ、彼は上半身を起して上から私を見ていた。

「覚えてるよ。お前の十六の誕生日だろ? 俺、あの時すごく嬉しかった」
「私もよ。けど、四か月もしないで伯母さん達にバレちゃって大変だったよね。なのに二週間もしないで留学しに行っちゃって帰ってこないし……」
「ごめんな? 本当は俺、お前をつれてどこか遠くに行こうと思ったんだけど……無理だって気づいたから…。置いて行くしかなかったんだ。まだ子供で、お前を養える自信もなかったし、お前をせめて高校は卒業させてやりたかった」

 私は彼にそっとキスをして笑顔でお礼を言った。

「そろそろ家に帰った方がいいんじゃない?私なら大丈夫だし、彼女、心配してると思うよ?」
「そう……だな。」

 寂しそうな顔をして動こうとしない彼を急きたてる。彼は渋々服を着始めた。

「見送りはいらないからお前は寝てろよ?」
「わかった」
「じゃぁまた来るからな」

そう言って彼は私の家を後にした。情事が終わり、その部屋に一人残されることには慣れたものの未だに寂しさや悲しさを覚える。
次第に睡魔に襲われ、懐かしい夢を見た。夢の中の私は絶えず笑顔だった。

『ねぇ、お母さん。どうして家にアケビの木が二本もあるの? 一本でもいいんじゃないの?』
『通草ってね、一本だけじゃ実ができないの。二種類の通草の木があって初めて実がなるのよ』
『じゃぁ、私みたいだね』
『え?』
『だって、私もお父さんとお母さんがいるから生まれたんでしょう?』
『そうね、その通りだわ。そうだ! いいこと教えてあげましょうか』
『なぁに??』
『通草の花言葉って知ってる?』
『花言葉?? 知らなぁい』
『通草の花言葉は〝才能〟と〝唯一の恋〟っていうのよ』
『ふ~ん』
『あなたも中学生になったんだし、素敵な人と出会って最初で最後の恋になるくらいの良い恋愛をしなさい?』
『お父さんとお母さんみたいに??』
『そうよ。お父さんとお母さんみたいに幸せな家庭を作ってね』

 ここで目が覚めた。お母さんは相変わらず優しくて、とてもとても幸せそうだった。今の私たちをみたら何と言っただろう?怒っただろうか?それとも見て見ぬふりをしたのだろうか?



 私たちはあの日からほぼ毎日会っていた。そして毎日のようにお互いを求め合った。彼女には申し訳ないと思いつつも、再び出逢ったあの日からこの想いを止めることはできないのだ。一度諦めた恋でも、私にはやっぱり彼しかいない。私に残されたたった一人の家族。私の兄であり、最愛の人。例えこの愛が神に背こうとも止められない。止まらない。


 そんなある日のことだった。式を二日後に控えた今日も二人で愛を深めあい、その後の事。最近彼の余所余所しさが気になっていたがこの日はいつも以上に不自然だったのだ。だから私は彼に思い切って聞いてみた。

「ねぇ、最近おかしくない?」
「そうか??」
「なんか余所余所しい感じがするの」
「……」

 ちょうどワンピースを身に着け終わった私は彼の目の前に回り込んだ。彼は黙って私から目をそらす。

「何かあったの?」

 だいたいの想像はついたがあえてこの質問を投げかけてみた。しかし帰ってきた答えは予想以上に残酷なものだった。

「もう……お前とは会えない」

 彼は小さく呟いた。

「え…?」
「もうここには来ない。お前にも二度と会わない」

今度ははっきりと、私を拒絶するように言葉を紡いだ。

「どう…して……?」
「俺が愛すべき人はもうお前じゃないんだ。明後日には結婚して妻ができる。その妻はお前じゃない。それに…俺達は兄妹なんだよ!」
「なんで…そんな急に……」
「俺、本当はわかってたんだ。こんな事いけないって。でもきっかけがなかった。」
「じゃぁ……、私を愛してるって言ってくれたのも嘘だったの!?」
「それは嘘じゃない! 今もその気持ちは変わらない。けどもうだめなんだよ! お前だってわかっていたはずだろう? 俺が結婚するって。わかっていたなら気づいたはずだ!」
「もう聞きたくない!!」


 気がつくと彼をベッドに押し倒し、力いっぱいに彼の首を絞めていた。彼は苦しそうにもがいていて体制が悪かったのか、私を振り払えないでいた。もちろん私も手を緩めるようなことはせずに、彼を見下ろしたままだ。少しずつ彼の力が抜けていくのがわかる。そして彼は最期に悲痛な笑みを浮かべ、声にならない声で私にこう告げた。

〝愛してる〟と。

 正気に戻った頃にはすでに遅かった。彼を殺めてしまった。不思議と涙は出てこない。放心状態だったせいもあるのかもしれないが、だんだん笑いがこみ上げてきた。


彼はもうどこにもいかない。

私から離れていかない。

私だけのものになった。

永遠に私だけのもの――…。



その晩、彼が帰ってこないと彼女から連絡がきた。それもそのはず。彼は私の家にいるのだから。でも私はお昼過ぎには帰ったと嘘をついた。そして、もう二度と会わないと約束したと彼女に伝えた。最初は疑っていた彼女も最後には信じてくれて、探すのを手伝うと言い電話を切った。

「今奥さんから電話来たよ? 私の夫はどこにいるの?って。ちゃんともう帰ったって伝えといたよ」

彼のもとに近づき、そっと髪を撫でる。

「だから安心して眠っていていいからね? 大丈夫だよ、私はここにいる。もう離さないよ。……え? 見つかったらって?? う~ん…もし見つかったら私も一緒に謝ってあげるよ。そんな顔しなくても大丈夫だって! そうだ、ひとつだけまだ言ってなかったことがあるの。あのね、私、生まれてから今まであなた以外の事を愛したことも好きになったこともないんだよ。知ってた??」

 

 
新婦になるはずの女性は、新郎になるはずの男性を探した。しかし結婚式の始まる時間ギリギリになっても彼は見つからず、急慮中止になってしまった。
後日、警察に捜索願を出し一番疑わしかった、ある女性の家を訪れた。近所の住人はしばらくこの家に住んでいる女性を見ていないと言う。男性の失踪と何か関係があるのではないかと疑った警察はチャイムを押しても誰も出てこないこの家に強行侵入した。
庭には、熟しすぎたいくつもの通草が虫や鳥に食べられて地面に落ち、見るも無残な状態だった。
 家の中は静まり返り乱闘等があった形跡もなかった。順番に部屋を見て回りある部屋で足を止めた。

 その部屋で警察が見たものは―――……

この家の主人であろう女性と腐敗した男の死体だった。

女性は仕切りにその死体に話しかける。正気を失っているようだ。異様な雰囲気に包まれた部屋で、とても幸せそうに笑っていた。
 この部屋に足を踏み入れた警官は皆、深い悲しみを覚えたという。

女性はかなり衰弱しており、警察病院に入院することになった。回復次第裁判になるはずだったのだ。しかし彼女は回復前に自殺を図りこの事件は静かに幕を閉じた。
この女性が残した遺書にはただ一言こう書かれていた。

〝私の唯一の恋でした。″と。


以下の文は家宅捜索した際に押収した彼女の日記の一部である。

《お父さん、お母さん、ごめんなさい。いけないこととはわかっているけど、でもお兄ちゃんを愛しています。止められません。神に背いてでも私は幸せになりたいんです。》

《お母さん…、私は幸せな家庭を築くことはできそうにありません。伯母さんや伯父さん達にされたことは私の口からは絶対に言えません。理解して受け入れてくれるのはお兄ちゃんだけなんです。今より少しでもいい、穏やかな生活ができれば幸せなのに……》

《お兄ちゃんがいなくなってからは伯母さん達の行動が酷くなる一方です。この間はとうとう伯父さんだけではなく、伯父さん達の知り合いのいろんな人に汚されてしまいました。死んでしまいたいけど、いつお兄ちゃんが帰ってくるかわからないから私は頑張ります。お兄ちゃんが帰ってくれば、私はきっと幸せになれるはずだから。》

《彼の結婚が決まったようです。初めて彼から来たはがきは残酷にも結婚式の案内でした。彼を待ち続けた結果がこれです。けれど、このはがきのおかげで彼に会う事ができました。彼は伯母と私にもう一生会わない代わりに、家から追い出さないでくれるように頼んでいたらしいのです。だから会いたくなかったわけじゃないんです。私もちゃんと約束を守りました。ここに引っ越してきてからお母さんとした、彼から連絡が来るまで会わないっていう約束を。これできっと私も幸せになれる気がします。》


彼女の二十年のいう短い人生は幸せだったのだろうか?
そして、彼女は本当に幸せを手に入れることができたのだろうか?



by 田代氷芽



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