今日もようやく一日が終わった。幾度となく繰り返されるつまらない毎日。昨日と変わらない今日、今日と変わらない明日。いい加減、飽き飽きしてくる。もともとこっちの世界には何も期待はしていないけれど。
 たまに通う学校では、皆と同じ服を着て、皆と時間を共有し、皆と同じ様に考えて……。クラスメイト達などのくだらない話に笑顔でつきあってあげる。別に楽しいわけじゃないけど馬鹿みたいにヘラヘラと笑っているだけ。
「はぁ…」
 溜め息をつかずにはいられない。黙って鞄から煙草とジッポを取り出して一服する。決して自由に使える金は多いわけではないが、欲しい時にちょっと働けばいくらでも手に入るから困りはしなかった。この時だけは厭でも親に感謝してしまう。自分をそれなりに美しく作ってくれた事を。

 欲しい物は何でも手に入る。我慢なんて必要ない。

「はぁ…」
 もう何度目になるだろう溜め息をつき、ベッドに横になって煙草を吸い始めた。この煙草…ガラムとはもう何年の付き合いになるだろうか。初めはただタールの量が多いからという安易な考えで選んだ煙草であったが、あの甘すぎる味も時がたつにつれてだんだん気にならなくなってきた。
「あつっ」
 煙草の灰が皮膚に落ちた。かなり熱くわずかに火傷になったが動くのが面倒だったため灰を掃(はら)うだけですませた。何本目かの煙草を吸い終え、箱が空になると部屋に響くのはスコールのように激しい雨音と風の音だけになった。
 雨は嫌いじゃない。むしろ〝好き〟の部類に入ると思う。特に濡れるのが。全てが浄化されるような気がするから。自分をかわいそがれるから。でも今は。今は動くことさえ億劫だ。それにこの音も耳障りではないが、決して心地よい物でもない。
 ベッドに寝転がり、そっと瞳を閉じて今までの出来事を思い出してみる。が、鞄の中の携帯が鳴り、すぐに中断させられた。電話してきた奴が誰かわかってる。アイツの電話なんて、出る気なんかさらさらない。
「着拒しとけばよかった」
 携帯から発せられる不快な音楽に舌打ちするが、全く動こうとは思わない。しばらく鳴り続けていたがようやく止まった。視線だけで鞄の方を見るが再び鳴り出す気配はない。だけどアイツの事だからきっとまた掛けてくるに違いない。そう思うと余計に腹立たしくなってきて、自然と鞄の中の新しい煙草へと手が伸びる。中から一本を取り出し口にくわえた瞬間、また携帯が鳴りだした。今度はワン切りで何度も。きっと電話に出るまで何度でも掛けてくる気なんだろう。仕方なく煙草をくわえるのを止め、電話に出た。
「はい」
「あっ、俺だけど。やっと電話に出てくれたな」
 電話の向こう側からさらに苛立たせる、チャラチャラした声がする。
無意識のうちに手はジッポをカチャカチャと鳴らす。
「なんで全然電話に出てくれねぇんだよ。心配したじゃんか。俺さ、やっぱ思ったんだけど俺とお前ってさぁ」
これ以上コイツの声なんか聞きたくなかった。
「あのさぁ、ウザイ。もう電話してこないで」
 向こうが話している途中でも関係ない。それだけ告げると電話を切って電源を落とした。この携帯なんてもう必要ない。いらない。だからごみ箱に狙いを定め投げてみた。入るか入らないかはどうでもよかった。
 ベッドに戻り、そしてまた寝煙草を始める。外では雷が鳴り始めたみたいだ。相変わらず雨は降り続き、それは自分の代わりに涙を流してくれているようだった。その様子がさらに追い打ちをかける。自分が惨めだと……可哀想だとだと……そう言われているみたいで……。
 自分を自分で労(いたわ)るのは構わない。でも、他人に労られたり同情されたりすることはこの上なく不愉快だ。
一本を吸い終わると煙草を止め、瞳を閉じた。そしてさっきのようにあの日々を思い出す。誰にもこの苦しみをわかってもらえない、理解してもらえないと終焉に手を伸ばしたあの日。あの日確かにすべては終わるはずだったのに。それから何度も何度も終焉を迎えるための努力はしたけれど、人間とは意外にしぶといもので、あと一歩でいつも手に入れ損ねていた。    
もしかしたら心からそれを欲していなかったのかもしれない。心の奥底のどこかで少しでも生への執着や周りへの期待をしていたのかもしれない。
だから自ら堕ちていこうと思った。人間社会の裏、闇の世界、アンダーグラウンドへと。そうすることで希望を捨ててしまおうと思ったのだ。裏の世界はとても居心地がよく、自分はもともと表の世界ではなくてこの世界の住人だったのではないかと思ってしまう程だった。いつのまにかこの世界に入り浸ってしまい、ここに帰ってくる事は少なくなった。この無駄に広い自室に。
広いのはこの部屋だけじゃない。この家全体が無駄に広すぎる。どうせこの家にはだれも帰ってやしないのに。
もともとは家族三人で仲良く暮らしていた。実際は家族以外にも執事やメイドなどさまざまな人もいたのだが。しかし小学校の中学年頃になると両親はそれぞれ違う異性を家に連れ込むようになり、少しずつ不和になり崩壊していっていった。中学を卒業する頃には仕事だと言ってこの家に帰ってくる事も少なくなり、ほとんど別居状態。今では、どこか他に家を建てそこに暮らしていて、一度も帰ってきていない。だから高校に入って少しした時、雇っていた人達を止めさせて裏の世界へ足を踏み入れた。
初めてそこに踏み込んだ時は何とも言えない感覚だった。初めて知る事も多々あって戸惑ったこともあった。けれど、いろいろなことを体験し覚えていくこと、そして自らが闇へと堕ちていく感覚がとても嬉しかった。これでもうあの苦痛から解放されたと有頂天になっていたのかもしれない。どこへ逃げても苦しみ・悲しみは存在するのに。ただ、我慢して耐えるか。乗り越えるか。何かにあたるか。その差だけ。だから自分の性格や見かけによらず意外と喧嘩に強い事からすると裏の世界の方が性に合っていたのかもしれない。
『かわいそうな子……』
 突然声が聞こえてきた。
「え……?」
この声には聞き覚えがあった。
『かわいそうな子……』
頭の中で鳴り響くあの声……。聞こえるはずがないのに、この場で言われているように聞こえてくる。起きあがって周りを見るがやっぱり誰もいない。けれど聞こえる声。それは耳を塞いでも頭の中に入ってきた。
『かわいそう……』
「違う……」
『あなたはかわいそう……』
 急いで聞きたくないこの声を遮断するかのように鞄の中からMP3を出しヘッドフォンをすると、いつも聞いているビートがきいたとても激しい音楽を外に音が漏れるほどの大音量でかけた。なのに、それでもあの声は聞こえてくる。
『自ら堕ちていく事でしか自分を保つことも正気でいることもできなかったのね……』
「……さい。うるさいウルサイ!」
『本当にかわいそうな子だわ……。どこの世界にも本当の居場所なんてなかったのでしょう?』
 何も言えなかった。でも、〝そんなことない〟と首を横に振り必死に否定する。
『だからここに戻ってきた。ここで全てを終わらせるために。』
「――……っ」
『かわいそうに……』
 決して的外れではない言葉に目を見開いたが〝かわいそう〟の言葉で我に返った。
「違う!」
『いいえ、あなたはかわいそうな子よ……。それにすら気付かないなんて……』
「黙れっ!!」
『憐れね……』
「そんなのアンタに関係ない! 黙れよ!」
 ヘッドフォンを外し床に投げつけながら狂ったように姿の見えない誰かに向って叫んだ。
「アンタに何がわかる! 何も知らないくせに!!」
鞄の中からカッターを取り出し手首にあてる。まるでそうする事が当然であるかのように、腕にはたくさんの痛々しい傷痕が目につく。他にもさまざまな痕がうかがえた。
「これ以上縛りつけんな! もううんざりなんだよ!!」
抉るようにカッターをひく。少し遅れて白が紅(あか)に変わっていき、そのまま紅が溢れ出す。生温かさが滴り落ち、染みを、そして水溜りを作りあげ、しだいに大きくなっていった。徐徐に起きていることすら困難になりベッドに横になる。紅は服までも鮮やかに染めた。
「……ようやく……黙ったか……」
 満足そうな笑みを浮かべ愛おしそうに腕を見つめる。
「これで……全部終わる……。解放……される…………」
ゆっくりと瞼が閉じていく。しかしそれにすら恐怖に怯えるのではなく安堵していた。この穏やかな表情からはとても今まで経験してきた出来事を想像することはできない。


 そしてその瞳には何も映らなくなった。一筋の光さえも。


 いつのまにか雷は止み、風も治まっていた。あのスコールのような雨さえも小降りとなり、いつ止んでもおかしくないくらいだ。さっきまでかけていたMP3も充電切れの意を示す文字を表示し動かなくなった。


『憐れな子羊に束の間の至福を……』


 すでに雨は完璧に止み、物音1つしないこの部屋にその声だけが静かに響いた。




by 田代氷芽



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