「……最終日の明日は主にサインプレイの最終確認を行う。大野と小島は別メニューで低めへの投げ込みをする」 以上、各自早めに床につくように、と、あらかじめスケジュール帳にメモしておいた内容を淡々と読み上げた槇原は、いわゆる腰掛け顧問だった。彼は二浪の末に音大を諦めた。そこで、どこかの企業に就くか、公務員にでもなるか、ということで結局、給与のことを最優先に考え、比較的割のいい教師になることを選択した。 その後、大学在学中に理科教師の資格を取得し、公立高等学校の野球部の顧問を仕方なしにしている、というなんとも成り行きに任せた生活を送っている。彼にとっては、他にこれといって希望の職があった訳ではないし、それに適当になんとか食べていけてるので、これはこれで良いかと最近思い始めているところだった。 ∝ 部員全員の就寝を確認したところで、槇原は縁側に腰を下ろし、さざなみが揺れるのをぼんやりと眺めていた。宿舎として使っている海の家は、槇原の父親の所有物だった。そこに槇原をはじめとする野球部が合宿に来ている。海開きにはまだ少し早い月なので、砂浜は天然のグラウンドとして使われていた。 明日で実家を離れるので、槇原は部屋の掃除をするべく二階に上がった。ここは二階建てで、二階に槇原の部屋があった。 久しぶりに入った自分の部屋は、槇原が出て行った時のまま、塵と埃だけが数年の空白を埋めるかのように大量に積もっていた。少しは親父が片付けてくれたのかなと、心の何処かで抱いたちょっとした期待感はさておき、しばらくはこの大量の塵と埃と格闘する羽目になりそうだ。掃除機でも使えば手っ取り早いが、下の部員を起こすわけにもいかず、はたきと雑巾で地道にやることにした。 掃除を始めて一時間もしたところ、槇原はようやく、特に汚れのひどい大きな黒い塊に目を向けた。それは、学校の音楽室にでもあるような、グランドピアノだった。部屋の面積の半分をこのピアノが占めていた。特に手入れを熱心にしていたわけでもないので、他のどの家具よりも汚れが目立っているのは当然だった。でも、あまり槇原にとってはいい思い出のあるピアノではない(浪人生活しか思い出せない)ので、この部屋のドアを開けたときからなるべく見ないようにしていたのだった。 ピアノの埃もそのままに、屋根をあけようとピアノに触れた。と、同時に、ほとんど反射的に、伸ばした手をびくっと引っ込めた。静電気を感じた時のような槇原の反応。だが、槇原の手は、ピアノから何か、普通じゃない感触を感じていた。 「ピアノが、暖かい……?」 改めて言葉にしてみて、槇原は我ながらなんとも間抜けに思えた。しかし、「暖かい」という自分の口から出た言葉に、槇原はどうも引っかかりを感じた。ぬくもり、と呼ぶにはあまりにも生々しい、そんな暖かさを、ピアノから感じ取ったのだった。 槇原は鍵盤蓋を開け、鍵盤を叩いた。かたん、かたんと、指が鍵盤を叩く音だけが妙に大きく聞こえた。やっぱり、前のような音色を奏でることは無かった。 鍵盤を叩く手を止め、槇原は、 「……いるんだろう? 出て来いよ」 と、ピアノの上の虚空に呼びかけた。 二、三秒ほどしたところか、 『あんた、うちが見えるんやね……』 幼く、か細い、少女の声が聞こえた。今にも消えてしまいそうな声だな、と槇原は思う。彼には昔から霊感があった。 「まあね。それより、あんた誰?」 槇原はまたピアノの上の虚空に、正確には上半身だけのピアノの上に浮いている幽霊に向けて言った。 『うち、海で死んでしもてな。気いついたら、ここにおった』 少女の腰から下は食いちぎられたように無くなっていた。ここの海は野生の鮫がよく出ることで有名だった。 少女は、眼下のピアノに眼をやり、 『音が出えへんのやろ? ちゃんと手入れせなあかんで?』 「しらばっくれるな。もとに戻せ」 『むー……なんや、知っとんたんか……』 玩具を買ってもらえなくて不満そうな子供っぽい表情を、少女は槇原に向けて作って見せる。そして、諦めたようにひとつ溜息をつくと、ピアノに向かって何かつぶやいていた。 『はい、ええよ』 槇原はもう一度ピアノに触れた。さっきのような生暖かさは消えていたが、まるで死体に触れた時のような冷たさを感じた。母親の死体に触れた時と同じだった。だが、音は戻っていた。下の部員を起こさぬように、槇原はなるべく静かな曲を選んで弾いた。ベートーヴェンの「エリーゼのために」だった。 左利きの槇原が弾く演奏は、主題よりも副題のほうが微妙に音が大きかった。こういう基本的な曲ほどその癖が一際目立つ。音大に二度落ちたのも、この悪い癖のせいかと改めて思う。 ひととおり弾き終わると、槇原は少女を見て、 「お粗末さま」と苦笑した。 『ふふっ、ほんまやねぇ』と無邪気に笑う少女。 「うるさいな」 『……でも、あんたは弾ける体があってええなぁ。やっぱりピアノは、鍵盤に触れてなんぼのもんやからな……』 生意気なちみっちゃい娘がいきなりシリアスに言うので、槇原は言葉が出なかった。こんな時はどんな言葉をかければ良いのかわからなかった。 沈黙がしばし、部屋を満たした。槇原はそんな空気に耐えられるほど器の大きな男ではなかった。 「もしよかったら、だけどさ」 『………?』 「……俺に憑依でもして、弾く?」えらく恐ろしいことを言ったものだった。 上半身はあるんだし、とはあえて言わなかった。すると思いのほか少女が『ええの?』と目を輝かせて言うものだから、軽い気持ちで口走った槇原は少し後悔した。でも、ピアノが弾きたくてももう弾けない少女の気持ちは、わからないでもなかったりした。 ふう、と大きく息を吐き出す槇原。そして、肩の力を抜き、静かに目を閉じた。 少女も、同じように目を閉じ、まるで口づけでもするかのように槇原に正面から近づいてゆく。 そして、重なった。 ∝ 槇原が、正確には槇原の中の少女が弾いているのは、ショパンの「エチュード第三番 ホ長調」だった。別れの曲。そういうことか。主題が盛り上がるにつれて副題がそれを引き立てる、それはピアノではなくひとつのオーケストラのようだった。 『ごめんな……』 「何が?」 『ピアノの音のことや。ほんまに、堪忍な』 「……俺のピアノ、大事にしてくれるか?」 『ええの?』 「次ここに来る時には、お前はとっくに成仏してるだろうし」 『なんやそれ……、でも、おおきに、ありがとうな……』 下の部員たちのことも忘れて、演奏は夜明け前まで続いた。 ∝ さざなみの音で槇原が目覚めたのは、起床時間の三十分前だった。ピアノに突っ伏す形で寝ていたせいで、頬に跡が残っているのが手触りでわかった。いつ閉めたのか、鍵盤蓋が閉まっていた。体を起こして、もう一度ピアノに触れてみる。あの時感じた不思議な生暖かさはそのままだった。 鍵盤蓋を開けて、鳴るはずの無い鍵盤を叩こうとした。その時、あの幼くてか細くて、今にも消え入りそうな声で生意気口を叩く関西弁を思い出した。 鍵盤に触れたら何かが壊れてしまいそうな気がしたので、槇原は静かに鍵盤蓋を閉じた。 刹那、ピアノから動悸のようなものを感じた。 by 十六夜 |