風景画なんてお茶の子さいさいよ、などと古めかしく二つ返事で引き受けた堀江は途方に暮れていた。いざスケッチブックを広げてみてもさっぱり鉛筆が進むことはなかった。これは別に、自分の描く絵にいささかの自信がないからではない。ただ、それ故に、という話だった。堀江は自分が描きたい、と思うような、自分の芸術家としての意欲を掻き立てる何かをまだ、見つけられずにいた。所詮はたかだが学校祭のポスターぐらいなら、妥協してそこら辺のなんとなく秋らしいものを適当に描けば全て済む話なのだが、堀江の芸術家としてのプライドがそれを拒んでいた。
 堀江はなんとなく、茜色の空を見上げてみた。今堀江が座っているのは、生徒たちの間でいわゆる中庭と呼ばれる場所の中のベンチである。中庭といってもこの学校の造りからすれば十分に外庭めいている(何しろ、堀江の目に映っているのはグラウンドの野球部員だ)のだが、それをなぜか、この学校の生徒は何の疑問もなく「中庭」と呼んでいるのだ。この学校は、とりわけそのような生徒の集まりなのである。(実を言うとこの「中庭」がこう呼ばれることには、ちゃんとそれなりの理由があるのだが、それはまた別の話になる。)
 煮詰まっても堀江がこの場所から動こうとしないのは、本人なりの理由があった。それはいわゆる、乙女心と呼ばれるものだった。堀江にとっては、四六時中、野球かスケベな話しかできない野球部員なんかは論外だ。ただ―――
「堀江、こんな所で絵の練習か?」
 堀江の思考が一瞬停止した。地学教師の槇原が、堀江のスケッチブックを後ろから覗き込むように立っていたのだ。
野球部員は論外だが、堀江の狙いはこっちにある。端正な顔立ちをした槇原は、年上を好む堀江にとって十分すぎるほどにストライクゾーンだった。堀江が年上を好むのは、自分と同じかそれ以上ではないと異性として受け入れられない、非常につっぱねた性格によるものだ。ふと、堀江は我を取り戻した。どうやら反射的にスケッチブックを抱き抱える形で隠していた、ということに気づいたのもその時だった。できるだけ自然な動作で、スケッチブックを膝の上に置き、槇原に気づかれないように一呼吸置いてから、堀江は槇原のほうを向いた。
「ええ、生徒会長の宮本さんがどうしても、と仰りますので、私としても断るわけには行かなかったもので」
「なるほど。そういえば君達は仲が良かったね」
 何がなるほどだ、と堀江は心の中で槇原に突っ込んだ。第一堀江と宮本は槇原が思っているほど仲良しではない。ただ、小学校からたまたま同じルートを辿って来ただけのこと、少なくても堀江はそう思っていた。これだから理系は、と内心でぼやく。しかし槇原のそういうところが、堀江にとって憎めないところでもあった。それは年上を見下せる優越感だったのかもしれない。
「それより、部員たちのところに行かなくてよろしくて?」
「ああ、僕は腰掛だから、ほとんどコーチが練習を見てるんだよ。ところで、今何を描いていたんだい?」
 腰掛だから、なんて軽く言う槇原に呆れつつ堀江は、
「一口に秋といいましても、なかなか難しいものでありまして…」
 と、今の自分の状態を話した。一部始終を聞いた槇原はというと、わかっているのかいないんだかの顔で呆けていた。
「…はあ、なんていうか、君は凄いんだな」
 おそらく槇原のことだろうからどこが凄いのかもよくわかっていないだろうが、それがまた堀江を上機嫌にさせた。はじめから堀江はこの反応を狙っていたのだ。別に槇原に専門家めいた助言などは要求していない。欲しいのは、呆けた感嘆の言葉だった。立場上は完全に槇原のほうが上なのだが、この生徒と教師が完全に逆転するこの瞬間が堀江にとってはたまらない快感だった。それが槇原であれば尚更だ。どうも地学とは相性の悪い堀江だが、この時ばかりは完全に堀江が数段大人だった。ただ、その歪んだ支配欲を恋愛感情のように考えている点ではまだまだ子どもであるのだが。
「では、私はこれで失礼―――」
 煌びやかに立ち去ろうとした、その時だった。
「待って。ひとつ聞きたいことがある」
 どこかさえない口調ながらも、意思は明確な語り口だった。
「…何です?」
「君は優秀な絵描きであるということは知っている。だからこそ、だ」
 槇原は一呼吸置いてから、
「音を描くことは、できるかい?」

     ∝

「こんなところで、いったい何をするのですか?」
 こんなところ、とは音楽室だ。芸術選択で美術を選択したので、堀江にとってはまったく無縁の場所だった。防音対策をしてあるせいか、教室の外の音はまったく聞こえない。空気は、重く鉄の味がした。旧校舎特有の香りである。
 槇原はといえば、教室の隅のグランドピアノを開けたかと思えば、弾きもせずに鍵盤をただ見つめていた。譜台に左手を乗せ、目を閉じている。奇妙な光景だが、何処か神秘的で、少し描きたくなった。
「秋と一口に言っても何も風景だけじゃないと思ってね」
 目を開けた槇原が堀江のほうを向いて言った。
「先生は、いったい何を言いたいのですか?」
「僕は君に言っただろう? 音を描けるかってね。その意味を、まずは考えて欲しいな」
音を描く?はてな?と首を傾げたくなる。そりゃあ、美大の入試で出されるテーマではあるが、深く考えてみたことはなかったのが本心だ。少し羞恥心を覚えたが、それをこんなさえない若手教師に言われるのは少し心外というか、堀江は少し槇原のことを見直した。
「テーマが秋、だから風景画、というのはあまりにありきたりだろう? 君にはもったいない」
 鍵盤蓋を閉めながら槇原が言う。どうやら、弾く訳ではないらしい。
「だから、あなたはいったい何を―――」
「君には聞こえないのか?」
 毅然とした口調で遮られた。
 もしかしたら、と思い、堀江は槇原の近くのピアノに駆け寄り、槇原がそうしたように、ピアノに手を当て、目を閉じた。
 聞こえるはずのない音が、堀江には聞こえていた。
 それは、ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ、という耳障りなものから、からころ、からころ、というような不思議な音まであった。
 かさかさ、かさかさ。ぺたぺた、ぺたぺた。
 たかたか、カリカリ、かりかり、カリカリ。
 音は確実に、堀江の耳に近づいていき、それはやがて堀江の聴覚全体を蝕んでいった。
 ぎぃ、ぎぃ、カリカリ、かさかさ、ぎぃぎぃぎぃ、かさかさ、かさかさぎぃ、ぎぃ、ぎぃ、ぺたぺた、かりかりぺたぺたぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃッ………!
「いやぁっ!」
 声にならない悲鳴を上げて、堀江はピアノから離れた。大量の汗を掻いていて、呼吸が乱れていた。
「驚かせてごめんよ。秋になると、よくある事なんだ」
 よくある? 違う。確かに弦が張り詰めてたまにこういう音が出ることは知っていたが、ここまでに生々しいのははじめて聞いた。ピアノの中に何か虫でもいるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしく、もしそうだとしても、堀江には確かめるだけの勇気はない。
「でもこれで、なんとなく描けそうじゃないかな?」
 薄笑いを浮かべて槇原が言う。それは数分前ベンチで堀江に見せた表情となんら変わりはないはずなのだが、堀江にはえらくオカルティックな笑いに見えた。チャイムが聞こえた?いや放送らしい。
『槇原先生、槇原先生、お客様が見えています、至急、職員室までお戻り下さい…』
 おっと、何の用事かな、と槇原はきびすを返して、
「悪いけど、もう閉めるよ。」
 槇原たちはそろって教室を出た。廊下の窓からは、夕日が刺していた。
「それじゃあ、がんばって」槇原は行こうとする。
「あ、最後ににひとつだけ」
 なんだい? と槇原は聞く。
堀江はおそるおそる、
「先生って、一体何なんです?」
少し考えるようなそぶりを見せてから、槇原は、
「ただのさえない地学教師さ」
 と、おどけた声を送って、職員室の方向へ駆けて行った。



by 十六夜



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