「あ、来てる」

 ポストに投げ込まれていた、オレンジ色の封筒を取り出す。ひっくり返して差出人を確認し、満足しながら自室に向かった。ケイちゃんとは、もう長い事になる。幼馴染みの延長線でなった関係だから、親にも近所のおばちゃんにだって公認。ただ、彼が家庭の事情で引越してしまったため、こうして月2回ペースで手紙のやり取りをしている。一年くらい前から、だろうか。必ず、数枚の写真を添付してくれていたのが、パッタリと止んでしまったのは。電話はおろか、メールすらくれなくなったのは。寂しくない、というのは明らかに強がりだけれど、こうして送られてくる手紙の存在が、“忘れてないよな?”と確認してくれているようで、それだけを拠り所に、日々を送っていた。戸棚の一番奥に仕舞ってある、淡いオレンジ色の箱。ケイちゃんが三年前の誕生日に私にくれたその箱に、手に持っていた手紙を入れた。

「随分たまったなぁ」

恐らく、あと四、五通も入れれば、蓋が閉まらなくなってしまうだろう。また、新しいの買ってくれるかな。そう思って、窓から庭を眺めた。ヒラヒラと、見れば二度と忘れられない程に紅く色づいた葉が、地面に小さな山を作っている。よくケイちゃんは、此処の紅葉が一番だと、笑っていた。きっと、今年も。この木と私に会いに、彼は来てくれる。来てくれるんでしょう?

「あっ」

箱を元の場所に戻そうと、体を回転させた時だった。少し斜めに掛かったカレンダーが目に入る。今日が十月の一日だという事を思い出し、一枚掴んで、少し捻って引っ張った。ビリビリと音をたてて、まだ何も書き込まれていない新しい面が顔を覗かせる。何も……書かれていない、筈だった。

「何…これ」

一つだけ、黒マジックで念入りに塗りつぶされている日付。まっさらな紙面の上、それは殊更に目立っていた。

「三日。何の日だっけ?」

友人や家族の誕生日でなければ、部活動の日でもない。何も思い当たる節が無いのに、でも、とても大切な日だという事だけは、漠然とだけれど理解できた。何かが、引っ掛かる。思い出そうとすればするほど、それをさせまいとする意思が、自分の中に生まれた。

「楓姉、今度清田さんが家に遊びに来るんだって」

バンッと扉を開けて、妹の彩が部屋に飛び込んでくる。

「ノックくらいしてよね。清田さん、一家で来るの?」

「うん。明後日」

そう、と表情を悟られないように後ろを向いて返事をする。清田、というのは、ケイちゃんの名字だ。

「そっけない返事しちゃって。本当は、嬉しいくせに」

見てもいないのに、彩の私をからかう顔が、目に浮かぶ。図星で何も言えない私を小さく笑ってから出て行ったのが、パタンというドアの音で分かった。





 「少しは落ち着きなよ、楓姉」

当たり前か、と呆れたように呟く彩の嫌味も、今日ばかりは気にならない。外に車が止まる気配がして、慌てて玄関の扉を開けた。そこに知った姿を見つけて、会釈する。

「久しぶり、楓ちゃん」

「お久しぶり、です。彰さん」

彰さんは、ケイちゃんに良く似た笑みを浮かべる。いや、ケイちゃんが、彰さんに似ているのか。ケイちゃんは父親似だと、皆昔から言っていたから。

「ケイちゃんは、来ていないんですか?」

一番望んでいた姿はそこにはない。今来るよ、と、彰さんが当然言ってくれるものだと信じての言葉だった。なのに、彼は静かに首を横に振る。憐れみを含んでいるような表情が、少し悔しくて、とても痛かった。

「楓ちゃん…。もう俺、いい加減、君に現実を見て欲しいと思って、今日此処に来たんだよ」

逃げてばかりいないで、と、付け加えられて、彼の悲しく揺れる瞳を、困惑気味に見返した。

「訳わかんないよ。彰さん」

分からない、筈なのに。まるで予め話の内容を知っているかのように、聞きたくないと心がざわめく。作った笑顔が、ひどくぎこちないものになっている事は、自分でも理解していた。

「景吾は、……死んだだろ。もう、一年になる」

胸のざわざわが数十倍にもなって、張り裂けそうだ。嘘だということは、分かっている。分かって、いるじゃないか。だって、ホラ。ケイちゃんは…

「ケイちゃんは、今でも沢山の手紙をくれます」

彼の大好きな紅葉色の箱に入った、紅葉色の封筒。ケイちゃんが生きている、証。

「あの手紙は、全て俺が書いたものだろう?」

違います、と、直ぐに言うべきだ。でも、口が動かない。何故? あまりにも、馬鹿馬鹿しいと思っているから? それとも。……ここ一年の手紙の内容を、何一つ覚えていないから?

「もう思い出しても良い頃だよ」

やっぱり似ている。だから、だろうか。すんなりと、頷いている自分がいた。そっか。今日は……三日は、ケイちゃんの命日だ。

「……返して、もらえるかな?」

控えめに、私の顔色を覗き込みながら、突然彰さんが頼んでくる。けれど、私にはその問い掛けの意味がまるで理解できなくて、首を傾げた。

「何を、ですか?」

言い難そうにする彰さんを見て、少しの見当もつかない自分を情けなく思っていると、小さく、小さく。でも、確かに、彰さんは呟いた。――景吾の、遺骨、と。





 結局、彰さんは帰って行った。お寺に預ける直前、ケイちゃんの遺骨が入った木箱が無くなったのだと、彼は言っていた。私が、やったのだろうか。ケイちゃんが死んだ事を、無かったものにする為に。何処かに隠して、忘れてしまった可能性は、充分にあった。

「明日、ちゃんと考えてみよっかな」

ベッドに潜り込む前に、ふと窓の外へと視線を投げた。月が、紅葉を白い光で照らす。昼間とはまた違った、何処か色香をも纏っているようなそれを見て、彼の事をより明確に思い出そうと思ったのだ。

「……彩?」

そこに予想外の姿を見つけて、慌てて外へと向かう。サクッ、サクッ、と、小さな音が、不規則に聞こえてきた。そっと、サンダルを履いたその足で音を立てないように、屈みこんだ彩の背中へと近づいた。何やってるの? というのは愚問だ。近づいてみて、彼女の傍らに置いてある小さな木箱を見つけたのだから。

「彩?」

ビクリ、と、肩を震わせ、ゆっくりと振り向いた彩は、不安そうな顔をして、楓姉、と、か細く、今にも泣き出しそうな声で呟いた。

「ダメだよ、彩」

やんわりと咎めると、彩は、静かに涙を流した。

「楓姉。清田さんが、嘘を吐くの。ケイちゃんが、もう死んだ、なんて、言うの」

彼女もまた、私と同じように彼の死を意図的に封じ込めているらしい。彼の遺骨を盗んでまで現実に抗おうとしているのだから、もしかしたら、私以上に傷ついているのかもしれなかった。ケイちゃんったら、モテモテだなぁ。本当に。家に戻って少し気を落ち着けるよう促すと、彼女は素直にそれに従ってくれるようだった。

「ケイちゃん、こんな所にいたんだね」

そっと木箱を撫で、小さく語りかけてみる。当然、返ってくる言葉は無かったけれど、触れた部分が僅かに温かいように感じられた。

「危なかったね。もう少しで埋められちゃう所だったよ」

此処に埋められてしまえば、ケイちゃんはずっと、私の傍にいてくれる。それは、ひどく魅力的な話だった。けれど、土の中からでは紅葉を見ることができないから。そうなれば、彼は笑ってくれないように思えるから、諦めるしかない。

「汚れちゃったね」

目の前にぽっかりと口を開いた穴を見て、折角積もった紅い葉が、砂にまみれて色褪せてしまっているのに気づく。

「そうだ」

私は急いで部屋に戻り、一つの箱を取ってきた。今現在私の腕の中にある、このオレンジ色の物を、果たして彼は覚えているのだろうか。弛んでしまっている箱の蓋をそっと開ける。本物のケイちゃんから貰った手紙は、既に勉強机の上に置いてきてある。数秒間、この一年、私を支えてくれた、彰さんが書いたという紙の束を見つめた。そして。箱を、一気に引っくり返した。バサバサッと、ほんの短い距離を幾通もの手紙が羽ばたく音と、地面に着地したくぐもった音が、穴の底から聞こえてくる。明日にはきっと、ケイちゃんを清田家に返さなくてはならなくなるから、せめてもの、けじめだった。ただ其れが、私はもう大丈夫、と、ケイちゃんを安心させてあげる為のものなのか、それとも、ケイちゃんは死んだんだと、自分に念を押す為のものなのかは、よく分からなかった。穴を塞ぐ為に、小さな錆びたスコップを握り、動かす。オレンジ色の封筒が、茶色で覆われていく度に、目の奥が熱くなり、鼻がつんとした。ケイちゃんがいなくなって、初めて流した涙だった。





 十月三日。それは、私にとって、大したインパクトの無い日だった。繰り返すばかりの日々に埋もれてしまいそうな、気づけば過ぎてしまっているような。そんな日に、世界は私の大切なものを、さも当たり前のように攫って行った。もうどんなに足掻いても、決して取り戻す事ができない場所まで、持って行ってしまった。

「楓姉?楓姉は、いなくなったりしないよね?」

命日から少し経過して、ようやくできたケイちゃんのお墓の前で、彩が心配そうに尋ねてきた。

「大丈夫だよ」

後を追う事を考えなかった訳ではないが、その行為が馬鹿らしいものだと気づいた。私が死んでしまえば、毎年誇らしげに色づくあの紅を、彼に伝える人がいなくなってしまう。残された私にできる事は、それくらいしかないけれど、と、砂利ばかりでモノクロな墓地を見回して思う。せめて、此処から離れられない彼が退屈しないように取り計らおう。

「今年のも、凄いでしょ」

そう一言添えて、二枚の紅葉をお墓に置いた。



by 楠木架音



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