「おー降ってる降ってる」 頬杖を付いて、気だるそうに窓の外を眺めながら、大した感情を込めもせず、時雨は呟いた。妙に寒いと思ったら、これだ。部室に唯一つある暖房器具を横目に見遣るが、灯油代をケチってか働いている様子は無い。 「銀世界ってか」 「ブラックですーっ」 不意に明るい声が響いた。それだけで、室内が少しだけ暖かくなり、彼の心は少しはずむ。 「来たな、暇人」 防寒対策と見られるマフラーを首に巻いた刹那を小突きながら、時雨は無条件でからかい口調になるのを自覚した。 「暇人って言うなー!」 口ではそう言いながらも、クスクスと嬉しそうに彼女は笑い、それから外に視線を移し、少し積もったねぇ、と声を漏らした。その声でもう一度外を眺めれば、確かに積もっているようで、時雨は未だ夏靴を履いてきている自分の行動を悔やんだ。 「明日には真っ白になってるかもな、グラウンド」 まだ少し土色が覗く其処を眺め、突然の降雪に道を急ぐスーツ姿の男性を笑いながら言う彼に、少し不満そうに刹那は口を開く。 「だから、白じゃなくて、黒だって」 その台詞を躊躇いも無しに言う彼女を、呆れたように時雨は見た。 「あれが、黒に見えんのか?お前には」 時雨の指の先で未だしんしんと降り続く雪を見て、確認したように一つ頷いてから、満足そうに彼女は言った。 「うん。真っ黒」 ケラケラと笑う刹那の声が、当たり前でしょ、というニュアンスを含んでいて、時雨は少し焦って雪を見た。うん、白だ。ちゃんと、白。純白、純白。 「雪ってねぇ、堕天使なんだよー」 その言葉を聞いて、ようやく時雨は、刹那が独特の世界を築き上げてしまっている事に気づいた。彼女には、時々あることだ。 「はいはい。その訳は?」 そうして、そんな彼女に付き合うのも、時雨の役割である。彼女が作る世界は、手探り程度にしか触れることはできないが、やや神秘的で、妙に心に響くものがあった。ひどく、心地よく。 「天使がねぇ、地上に追放されちゃった姿なのー」 知らなかったの? と、小バカにする刹那に、時雨は悪かったな、と、軽く受け流す。天使、ねぇ。雪が天国から降ってきてるって発想だけで充分話しが飛躍していると思うけれど。 「堕天使って、悪魔だろ? あれ、全部悪魔なの?」 想像したのか、時雨は少し嫌そうな顔をしたが、反対に刹那の顔は輝いている。 どうしてだか、得意気だ。 「だからねぇ、クリスマスって大変なのよー? キリストとサタンが戦っちゃうから」 刹那の中では、クリスマスという日がどういう印象でインプットされているのか。まぁ、まともな物では無いな、と、それだけは確認して、それから時雨は目を閉じ、彼女の世界を垣間見る。 「人間ってのは気楽だなぁ。何にも知らずに、騒いでるだけじゃねぇか」 外に出れば、聞こえてくるクリスマスソング。街を歩けば目を引くイルミネーション。けれどその全てが、急に色褪せていくように彼には思えた。彼女の描くクリスマスの方が、断然興味をそそられる。 「そーだねー。そうやって皆、キリストを応援してるのかなぁ。新たな発見だわぁ」 どうやら真剣に悩みだしたらしい。悩みモードに突入すると長くなるので、そうに決まってんじゃん、と、無理矢理彼女を納得させた。 「溶けちゃいたいなぁ、私も」 うっとりとした表情で、不意に刹那は呟いた 「また訳分かんねぇ事言って…」 半ば呆れながらも、時雨の体は自然と刹那の話を聞く体勢に入っている。 「どう足掻いても他人は他人、なんてさ、悲しいじゃん」 悲しい、というよりは、寂しい、という表情で、しかし彼女は真剣に言葉を綴っていた。たどたどしくはあるけれど。 「例えばさ、“嬉しい”って気持ちも、人それぞれなんだよーって」 ガバーッと両腕を広げて、分かるかーい? と刹那は言う。 「う…ん?」 いや、刹那を理解するのは、一生掛かっても困難な気がするよ、と、彼は心中苦笑気味に呟いた。 「だーかーらぁっ!時雨が“嬉しい”って名づけた気持ちを、もしかしたら私は、“楽しい”って名付けてるかもしれないでしょってこと」 あぁ、なるほど、という程は理解できていないけれど、まぁ言いたい事の雰囲気は掴めたから良しとしよう。 「でも、全部ごちゃ混ぜにしたら、そんな概念無くなっちゃって、そしたら、きっと、他の人の気持ちに近づけるのかなーって」 まるで至上の幸福がそこにあるかのように刹那は目を細める。理想に反して上手くいかない現実のじれったさが、じわりじわりと彼女の心を侵食していった。 「意味分かんねぇし」 そう吐き捨てて、彼は彼女の言葉を待つ。そうして、魅力的で独特な雰囲気を纏う世界に踏み入れる許可を求めるように。 「知りたいんだってば」 凄く知りたいんだってば、と、もう一度小さく刹那は繰り返した。 「何を?」 「時雨の気持ちとか、私の気持ちとか…?」 まだ考えがまとまっていないのか、随分と曖昧な返答を返す刹那に、時雨は小首を傾げる。 「自分の気持ちも?」 「んー。なんかね、この頃、自分が分かんないんだぁ。モヤモヤーってするんの。なんかこう、やるせないっていうか、ね」 この頃、というか。もしかしたら、自分自身を理解できた日なんて無かったかもしれないなぁ、と刹那はぼんやり思った。 「ふーん。だから、雪になりたいのか?」 「そう」 手元にあったシャープペンをいじりながら、刹那は答えるが、やはりそこには、当たり前でしょ、という響きがあった。 「溶けちゃいたいのか?」 「んー。多分?」 「何で疑問系…」 苦笑する時雨に、だって、と言葉を繋げる。 「もしかしたら、拾い上げて欲しいかもなぁーって、今思ったから」 「はぁ?」 「地面に落ちて、溶けちゃったり、他の雪と混ざって見えなくなっちゃったりする前に、時雨に拾い上げて欲しいかもーって。そしたら、幸せなんだろねぇ」 刹那はカラリと窓を開けて、おもいきり手を伸ばした。ふわり、と、人差し指にのった雪が、ゆっくりと形を崩して水滴になった。 「それ、幸せなのか?」 「多分ね。勘だけど!」 ニカッと刹那は笑い、少し暗くなり始めた雰囲気が一瞬で元に戻る。 「さっきの続きだけどさ。きっと雪なんかになったって、他人なんか分かんねぇよ」 「なんでさっ!」 ムスッとした顔をして、刹那は軽く時雨を睨む。 「気持ちなんて元から曖昧なんだから、理解する方が無理。仕方ないんだって」 「んー…」 少し不満そうにしながら、しかし、反論はしない刹那に、時雨は満足そうに頷いた。いや、きっと。ただ、彼女に消えて欲しくないだけだと、時雨は思った。そっと、隣にいる刹那を見る。彼女は、目を離せば簡単に消えてしまうような気がした。まるで、雪のように。 あー! と、突然刹那が大声を上げる。 「今ねぇ、一つ気づいたんだぁ」 嬉しそうに、彼女は言葉を継ぐ。 「時雨の隣にいると、モヤモヤ強くなるー」 ニヘラ、と屈託の無い笑みでそう告げられて、時雨は眉間を寄せた。 「それが何だってんだよ」 べっつにー、と、不機嫌になる時雨を指差しながら、刹那はケラケラと笑う。 「誉め言葉なのにぃ」 外は徐々に闇に染まっていく。午後6時を告げるチャイムが、二人の耳に心地よく響いた。 by 楠木架音 |