「花の香りを気持ち悪いと思ったのは生まれて初めてだぜ」
 降るような栗の花のトンネルの下で、憧(ケイ)はひとり呟いた。
 独り言なんて根暗なヤツみたいでヤだね、なんて思っていた憧だが、それでも思わずそう呟きたくなるほど、そこは栗の花のむせ返るような匂いで充満していた。気温とその時の気分によっては、吐き気をもよおすかもしれないほどだ。
 頭上を仰げば、黄色がかった白の栗の花は、深緑の葉の間から重たそうに垂れ下がっている。190センチ以上ある憧の背丈を何周りも上回る位置に太い枝を伸ばす栗の大木は、果てしなく続くような散歩道をずっと追い続けて、並木道をつくっていた。ほんのりやわらかさを感じ取れる、踏み固められた土の道の上を、憧はのんびり歩いていく。
 彼は漆黒のレザー・スーツを着ていた。青みを帯びた、少し延びた黒い髪は、ワックスで四方にはねたかたちでかためられている。精悍に整った顔の上で形のいい唇が不適に笑っていて、一見軽い男に見えないこともないが、琥珀色の鋭い光を放つ目が、内に秘めたひどく物騒で、だがなぜか強く惹かれる何かを感じさせる。
憧は、つい先刻、某大企業の社長令嬢の護衛の任を解かれたばかりだった。といっても、別にクビにされたわけではない。3ヶ月の契約を終了したのだ。その令嬢が典型的なわがまま娘だったので、いい加減うんざりしていた憧は内心ホッとしていた。それはそうと、さすがはその存在知らぬ者のない大企業の社長、羽振りがよい。令嬢の三ヶ月間の護衛で得た報酬は、度を越えた贅沢さえしなければ二年は遊んで暮らせるほどのものだ。特に使う予定もないのだが、自分の口座に振り込まれたその金額を見て、その莫大さにわずかに呆れながらも憧は満足そうな顔をしていた。

「香りのない花はつまらぬと思わないか?」

 先程の自分の呟きを忘れた頃に、よく通る力強い声が、憧の耳に届いた。自信に満ち溢れた、けれど嫌な感じのしない、美しい女性の声だった。
 憧は反射的に振り向いた。声がするまで、その気配を感じ取れなかった自分が信じられなかった。いや、相手が『普通』の人間なら、憧は間違いなく50メートルと近寄らせることなく相手の気配を感じられる自信がある。この場合、『おかしい』のは相手だろうと、憧は思った。
 背後五メートルほど離れたところに立っていたのは、鮮やかな深紅の着物をまとった、長身の美女だった。
 その女は二十代後半くらいだろうか、憧より少し年下に見えた。燃え立つような真っ赤な長い髪は、純白の超小粒真珠をたくさんちりばめた黒い帯にわずかに届いている。憧と同じ琥珀色の瞳は、揺るぎない意志を秘めて、かすかに金色に輝いていた。肉厚の形のいい唇が大きな弧を描いて笑っている。重量を感じさせる着物の上からでも、そのグラマラスな量感溢れる体型がよく分かる。着物と言っても、裾が足首の丈よりもさらに長く、数十センチほどを地面に広がらせている。憧の身長にほとんど見劣りしないその女は、思わず息を呑むような絶大な存在感を持っていた。それは決して身長のせいだけではない。その内からほとばしるような強い光(オーラ)が、すさまじくその存在を主張している。
 憧は内心そっと苦笑した。誰だか知らないが、とんでもない女に逢ってしまったなと、直感的に思った。

「そうか? こう強烈だとその美しさも色褪せるとは思わないか?」

 初対面の女と普通に会話している自分がおかしかったが、憧はなぜかとても自然に言葉を結ぶことができた。
 対して、女は、憧の返した言葉に満足そうに微笑み、それからきらりと光る挑戦的な瞳を向けてきた。

「匂いのない花ほどつまらないものはないと思うがな。目を閉じたらその存在を感じられないのだから」

 憧は唇の片端を引き上げて楽しそうに笑った。おもしろい女だと思った。おっと、これは逆ナンの類だろうかと、ふざけて考えたりした。

「なるほど、その点では賛成だね。自分の感覚で感じられないものは胡散臭いからな。だが残念なことに、この花だけは例外だね」
「なぜ?」

 女は笑みを絶やさないまま訊いた。あでやかで華やかな、美しい笑みだ。

「化粧の濃いおばさんとおんなじさ。近寄られるだけでうんざりするだろう? もちろん花は匂いがあるにこしたことはないが、強烈なのは願い下げだ」

 憧は両手を軽く上げて、おどけだ仕草で首を傾げてみせた。
 憧の返答に、女は一瞬目を見張ると、直立不動の体勢を崩して大きく体を折り曲げ、おかしくて仕方がないというように声を上げて笑った。快活でさわやかな、明るい笑い声だ。
 何がそんなにおかしかったのか不思議だったが、憧は黙ってそれに付き合った。女はひとしきり笑うと、すぐにもとの堂々とした笑顔に戻した。それはどこか晴れやかで、心から満足したような感じだった。

「気に入ったぞ」

 今度は憧が目を見張る番だった。なぜ初対面の女に気に入られる必要があるのだろう。だいたい名乗りもしないのに、そんなことを言われても意味が分からない。

「なんで俺があんたに気に入られるんだ?」

 心から不思議で訊いたのだが、女は答えなかった。その代わりと言ってはなんだが、鋭い光を放っていた女の瞳がわずかに細められた。

「おまえ、今は何をしている?」

 自分は女を「あんた」と呼んだことを棚に上げて、憧はなぜ初対面で「おまえ」呼ばわりされるのだろうと思った。けれどなぜか不快ではない。むしろどこか心地よかった。

「俺は今はただの暇人だけど? 仕事を終えたばっかりなんでね。なんだい、デートのお誘いかい?」

 わざと期待したような声で軽口をたたいた理由は、ただの彼のクセであったのと、相手の反応を知りたかったの半分ずつであったが、女は乗ってこなかった。また、楽しそうに美しい笑みを見せる。

「あいにく私は男と遊んでいる余裕はないんだ。今はな」

 こんなところで見知らぬ男に声をかけ、しかも大まじめに花の匂いの良し悪しについて語っていたくせに、余裕がないとはおかしな話だと憧は笑った。この女の言うことは先程から全く意味が分からなかったが、聞いていて飽きなかった。

「そろそろ行かなければ。これでも私も多忙な身でな」

 まさにこの場から立ち去ろうとしている女に、憧は少しまじめに声をかけた。

「あんた、いったい誰だ? なぜ俺に声をかけた?」

 最もな問いであるが、やはり女は答えなかった。

「また逢おう、憧。今度は正式なデートのお誘いをしてやる」

 憧は一瞬言葉を失った。なぜこの女は俺の名前を知っている?
 そう訊きたかったが、気が付いたときにはすでに女は背を向けて遠ざかっていた。
 憧はかすかに眉を寄せてそれを見送った。

「デートのお誘いね…」

 それから彼特有の不敵な笑みを取り戻し、自身も女に背を向けて逆方向に歩き出した。

「そいつぁ光栄だ」



 それから一ヶ月後。
 ちょっと前に栗並木で逢った変な女のこともだいぶ忘れてきた頃、憧のもとに新しい仕事の依頼がきた。
 一ヶ月たっぷり遊んで休養した憧は、いいタイミングだと思ってその仕事を快く引き受けた。しかもまたもやでかい仕事である。今度は大財閥の女総帥の護衛だった。
 俺もモテモテで参っちゃうね、なんてうそぶいていた憧の言うことも、大方間違いではない。事実、彼のもとにくる依頼の内容の大半は女性の護衛なのである。それも、その半分以上が本人じきじきのご指名だ。
 だがあいにく、今回は少しばかり話が違った。憧は、その女総帥に逢って度肝を抜かしたのである。

「初めてお目にかかります、茉莉花(まつりか)様の護衛を言いつかりました憧と申します」

 片膝をついてしゃがみ頭を垂れ、舌を噛みそうになりながら憧は慣れない言葉を口にした。
 ここは大宮司財閥の本社の西の一角、応接室である。目の前には、契約対象である女総帥が立っている。
 大宮司茉莉花。なんて大仰な名前なんだと内心呆れながら、憧は総帥に促され体を起こした。そして長身の己の顔のすぐ目の前でぶつかった彼女の目線を受けて、憧は危うく卒倒しそうになったのである。

「逢えて嬉しいぞ。やっとデートのお誘いの約束が果たせたな」

 大まじめに、最高級の笑顔でそういう女総帥に、めったに驚愕を表に出さないさしもの憧も、目を点にした。
 目の前に立っていたのは、強烈な香りに包まれた栗の並木道で出逢った、あの女だったのである。
 あの女は――茉莉花総帥は、今もやはり深紅の着物をまとっていた。真っ赤な地に白い茉莉花の花を散らした鮮やかな着物だ。

「…なんだ? もっと嬉しそうにしたらどうなんだ。デートの誘いかと先に言ったのはおまえだろう?」

 開いた口がふさがらない様子の憧に、女は気分を害したように思い切り眉を寄せた。だが、目が楽しそうに輝いている。

「…光栄至極でございます、総帥……」

 憧は目の端をヒクヒクさせながらひきつった笑顔で答えた。
 こんなデートのお誘いがあるかと心の中で悪態づきながら……



by 伽沙



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