そこは心理学の書籍がならぶ一角だった。 私は顔写真を表示させたケータイをかかげ、その画面の向こうにいる男の子の横顔を見比べた。 唐島世・男・一高(T県第一高校)の制服・身長180くらい・濃紺を好んで着る。 ――うん、彼に間違いなし。 私はぱこんと音をたててケータイをたたみコートのポケットにつっこむと、迷うことなく近寄った。一高の紺の制服の上に紺のコートを着ている。鋭利な目をした、整った横顔。 おもむろに、彼――唐島世は私の方に向きなおって両手をあげた。警官に「手をあげろ」と指示された犯人みたいに。 突然のことにおどろき一歩あとずさった私に、唐島世はためらいなく言葉をかけた。 「また百合の仇うちだな? 抵抗はしないから、一発なぐったらとっとと行ってくれ」 私は思いきり顔をしかめて言い返した。 「百合はたしかに私の友達だけど、なに、仇うち? なんであなたをなぐらなきゃならないの」 唐島世は拍子抜けしたような顔になって手をおろすと、今度は肩をすくめた。 「……じゃあ、俺に何の用?」 「ちょっと待って。その前にさっきの百合の仇ってなに?」 私はつめよって尋ねたが、唐島世はさっと背を向けた。 「用がないなら帰るぜ。さっき言ったことは忘れてくれ」 唐島世は立っていたコーナーから去ろうとした。私はあわてて追いかけひきとめた。 「待って。私は牧田咲。S高の2年よ。あなた、唐島世でしょ?」 唐島世はぱっとふりかえると、こわいくらい愛想よく笑った。 「ああ、君が咲ちゃん? 百合からよく話を聞いてたよ」 唐島世はいきなり私に思いきり顔を近づけた。そして私の耳に、恐ろしく低い声で語りかけたのだ。 「俺にかまうな」 ぞっとするような冷たい声に私は一瞬こおりついたが、背を向けて立ち去ろうとした彼に向って叫んだ。 「百合は死んだのよ」 大きな彼の肩が一瞬こわばったように見えた。 私は背を向けたまま立ち止まった彼のつぎの動きを待ったが、静かなひと言が返ってきただけだった。 「百合は……あんたのことをよく話してた」 私は五日前に亡くなった親友の顔を思い浮かべながら、遠ざかっていく唐島世の広い背中を見つめていた。 ◇ ◇ ◇ 最後のお見舞いとなってしまった九月のある日。 百合は真っ白いベッドの上で、あごを高くそむけ苦しそうにあえいでいた。 晩夏の午後、陽ざしをさえぎるカーテンの閉ざされた病室で、やせほそった百合の腕は、きつくシーツと汗を握りしめていた。 「百合、気をしっかりもって。絶対によくなるから。またいつものように遊ぼう? 映画行ったり、買いもの行ったり……」 私は百合の耳もとで必死に語りかけていたが、本当はもうほとんど意識のないはずの彼女は、枕の上でゆっくりと首を振った。 「咲……お願い、が……あるの……」 かすれたとぎれとぎれの声が聞き取りにくくて、私は彼女の口もとに耳を近づけた。 「なに? なんでもするよ」 百合が言いたかったことを口にできるまでにとても時間がかかった。何度ものどをつまらせ、息をはき、吸った。 「私が、死んだら……ね、見ていてほしい……人がいるの」 「死ぬなんて言っちゃだめ。……見ていてほしい人?」 百合は弱々しくうなずいた。 「彼……が……幸せ……なるの、を……、見守ってほし……の……」 そして彼女は一高に通っているという2年男子――唐島世の名を口にした。 それきり彼女は意識を手放し、唐島世のことについて語ってくれることはもうなかった。 ◇ ◇ ◇ 私は駅の中のファストフード店に入った。メールで連絡を受けていたとおり彼女――目的の人物は、壁がわの奥の角にいた。私はまっすぐそこへ行き、彼女の向かいに腰をおろした。 彼女は、ヤマメさん――別名「情報屋さん」だった。 彼女は茶色に染めた長いウェーブの髪を背の中ほどまで流していた。細身のめがねをかけた日本人ばなれしたきれいな顔は知的だった。黒いロングコートをはおっていて着ている服はまったくわからなかったが、T県の中心部にある私立M高の生徒だといううわさだ。 「わざわざごめんなさい。ちょっと知りたいことがあって」 ヤマメさんはくせのないきれいな笑みを浮かべて肩をすくめた。 「いいのよ。遅かれ早かれ、あなたが私を呼び出すことはわかってたもの」 「――なんでもわかるのね。あ、何がいい? ハンバーガー? ポテト?」 私は机に手をついて立ち上がりながら尋ねた。 「ジンジャーにする。ありがとう」 ジンジャーエール一杯は彼女の情報に対する謝礼だ。私はレジに行きジンジャーエールと、自分のための紅茶のホットを受けとり戻ってきた。 「あなたの知りたがっていることだけど……、うわさの真相でしょ?」 私は目を丸くして瞬きをした。なぜわかったのかと、目で問いかける。 ヤマメさんはにっこりと笑った。 「草加百合の死。あなたと彼女の関係。――そして、唐島世と彼女の関係、彼につきまとううわさからね」 私はさぐるように目の前の美少女の瞳を見つめた。親友の死を分析の材料のように扱われるのは不愉快だったが、世の名前が出てきてしまっては問い返さないわけにはいかなかった。 「百合と唐島について、なにかうわさがあるそうね。でも真相どころか、百合のほかの友達が知っているっていううわさの内容すら知らないの。どういううわさなの?」 ヤマメさんは一拍おくと、私の質問に答えた。 「唐島世が草加百合を殺した」 ドクン、と私の心臓がはねた。ベッドに横たわった百合の青白い顔を思い出して、何も言えなかった。 「ただのうわさよ。それにもちろん、殺したっていうのは直接的にっていう意味じゃない。聞く話では、精神的に病床の彼女をひどく追いつめて、間接的に殺したんだって言われてる」 「……どうしてそんなうわさが……。そんなうわさがたつにはちょっとくらい根拠があるんでしょう?」 「うわさなんてわからないものよ。草加さんの死を悲しむ誰かが、根拠にもなににもならないことに、憶測で尾びれ背びれつけて、唐島世に怒りと悲しみの矛先を向けたかっただけかも」 「根拠にもなににもならないことって?」 「……草加さんと唐島世が口論してたとか、唐島世と別れた後の草加さんが泣いていた、とか……」 私はヤマメさんの話す“情報”を不思議に思った。 私には百合と一等仲がよかった自信が、うぬぼれではなく、ある。性格は正反対なのに、妙に気のあうところのある、無二の親友だった。それなのに、彼女を泣かせたという男の存在になぜ今まで気づかなかったのだろう。 「2人って……つきあってたの?」 「そういううわさもあったけど、草加さんの片想いっていううわさもあった。本当のところは知らないわ」 ヤマメさんの答えはもっともだと私は思った。彼女は真実や秘密を提供しているわけではない。彼女が教えてくれるのは情報という名のうわさと、あらゆる可能性だ。 私は少しだけ紅茶を飲んだ。 「百合は、大切な友達だった。――知ってると思うけど」 ヤマメさんは何も言わず、うなずいた。 草加百合は小さいころから病弱で、不治の病にかかっていた。のこり数年の命と言われていた彼女だが、それよりも1年、彼女はがんばって生きた。だがとうとう、彼女は力尽きてしまった。 百合はまさに「はかなげ」という形容がぴったりの色白で線の細い、風にもたえないといったかんじの少女だった。目や鼻がこづくりでかわいらしく、容姿を裏切らないやさしい性格だった。彼女はどんなに体調が悪くても、お見舞いに訪れた人の前では決して笑顔を絶やさなかった。 「私――百合が死ぬ前に、百合にお願いされたの」 ヤマメさんは黙ったまま私が次の言葉を紡ぐのを待った。 「唐島世が幸せになるのを見届けてくれって」 「見届ける?」 「私にはこう聞こえた。彼を幸せにしてくれって」 「…………」 「唐島世に逢ったの。少しだけしゃべった。彼は私の名前を知っていた。百合がよく私の話をしたんだって」 ヤマメさんの明晰な頭脳は今私が公開した“情報”をフルスピードで分析していることだろう。 「私……百合の願いをかなえてあげたいの。たとえ――うわさが本当であっても」 しばらく口を閉ざしていたヤマメさんは、確認するように口を開いた。 「うわさが本当ってことは……唐島世が草加さんを追いつめて殺したとしても……ってことよ? それでも、あなた彼の幸せを考えてあげられるの?」 私は少し考えたが、肩をすくめて首をかしげた。 「正直わからない。もし百合がもっと長く生きられるはずだったのなら――とても許せないかも」 私はのこっていた紅茶をゆっくり飲みほすと、ヤマメさんに向かって微笑んだ。 「でも――そうじゃなきゃいいなって思う。――ちょっと……気になることがあって」 「……ひとつ……言わせてもらっていい?」 どうぞ、と私は目線で彼女をうながした。 ヤマメさんは珍しく、ためらいがちに口を開いた。 「私――一度だけ唐島世が草加さんと一緒にいるとこ見たことあるの」 「――それって情報じゃなくて実体験でしょ」 「いいえ、ヤマメという名の女が唐島世を見たという“情報”よ」 ヤマメさんはやさしく微笑んだ。 「――ありがとう」 「2人は、並んで街を歩いてたの。手はつないだりせずに、互いの顔が見えるくらいのちょうどいい間隔をたもって。――2人はとても、楽しそうだった。誰が見ても、しあわせな恋人同士に見えたでしょうね」 今は亡き親友と、知り合ったばかりの唐島世の姿を頭の中で並べてみてから、私は席を立った。 「ありがとう“情報屋さん”。もうちょっとさぐってみる」 荷物を抱え立ち去ろうとした私を、ヤマメさんが止めた。 「ねぇ、こんなことは言いたくないんだけど――唐島世には……深入りしない方がいい」 私は少し眉をよせた。 本屋で唐島世に逢った時の、恐ろしく冷たいささやきを思い出して、うっすらと鳥肌がたった。 私はその感覚を消すように苦笑して、応答した。 「肝に命じとく」 ◇ ◇ ◇ 百合が死んでからはじめて、彼女の夢を見た。 彼女の死はまるでなかったことのように、私たちはいつもどおりに教室で言葉をかわしていた。休み時間のたびに窓から校庭をながめ、昼には中庭でお弁当を食べる。私はしあわせな気持ちだった。 それなのに、目を覚ましてみれば、目じりが涙でぬれていた。その冷たさに、楽しかった夢がいっきに遠のいていく。 私はのろのろとベッドから起きあがると、ドレッサーの上に置いてあるケータイをとりあげた。裏のスピーカーのとなりにはってあるプリクラには、私と百合の笑顔。 プリクラなんて好きじゃなかったけれど、百合にうながされるままにしぶしぶ一緒に写った。カメラではなく目の前の画面を見つめたり誤ってモノクロにしてしまったり何かとドジな彼女を見てるうちに、私もだんだん笑顔になれたのを覚えている。彼女とのプリクラはこの時のものしかない。今は撮っておいてよかったと思う。 私は制服に着替えると、親指でみがくようにそのプリクラをなで、ブレザーの内ポケットにケータイをしまった。 朝ごはんを食べ、顔を洗い、時間を気にしながら玄関に立つ。 扉を開ければもう百合のいない世界。その中で、私は百合のねがいを叶えてあげなければならない。 運のいいことに、ヤマメさんにメールできいてみたら、ついさっき街の一番大きな本屋さんで唐島世の目撃情報があったという。初めて唐島世に声をかけたときの、あの本屋さんだ(ちなみにこの情報の謝礼はツケだ)。 まっさきに心理学のコーナーに行ってみたが、そこには彼はいなかった。濃紺のコートを目印にすべてのコーナーを探したが、やはり見つからなかった。 もう店を出てしまったのかとあきらめかけた時、ようやく彼を見つけた。彼は書籍コーナーから少しはずれた、書店内の小さな喫茶店にいた。長い足を組み、小さなテーブルに本をおき湯気のたつコーヒーをすすっている。コートを着ていれば(制服が見えなければ)、一人前の大人にも見えただろう。彼はそこらの男子高生とは明らかにかもしだす空気が違っていた。 私はオールドブックというその喫茶店に入り、ミルクティーを注文し受けうると、まっすぐ唐島世のいるテーブルに行った。 「こんにちは。ここいい?」 以前逢った時とおなじ書店だからか、彼は私にそれほどおどろかなかった。 読んでいた本をぱたんとまっすぐ閉じると、彼は明らかに愛想笑いとわかる笑顔で応えた。 「やあ、咲チャンだっけ」 唐島世は組んでいた足をおろした。私が向かいがわに腰をおろすと、彼が心で構えるのを感じた。 「この間はごめんね。突然出向いたりして」 まずはこの男に必要以上に構えられるのをさけるようにしなければならない。私はなるべく気軽に笑顔で話しかけた。 これがいつもの彼なのか、はりつけたようなうすい微笑みで応えた。 「いや、俺も勘違いしたしな」 「あの、そのことなんだけど……なんであなたが私になぐれって言ったのか、あとからわかったの」 一瞬、ほんの一瞬、愛想笑いすら彼の顔から消えた。だがすぐにもとに戻ると、軽い口調できいてきた。 「へぇ。うわさ聞いたんだ」 冷たい笑み。私は言いようのない不安に襲われた。百合を殺したのが本当に彼だったらどうしよう。そう思った。 私は動揺する心をおさめて、それでも緊迫しながらきいた。 「うん。ねえ、どうして平気でうわさを信じる人たちになぐられてあげるの? 違うって言えばいいじゃない」 彼が犯人じゃないなら、自分ではないと弁明しない理由があるのだ。……そうであって。 そう願う私を見る唐島世の顔から、ふっと、完全に表情が消えた。 「俺をためすな」 私は言葉というものを失った。体感温度がいっきに下がっていくのを感じていた。 唐島世はテーブルに手をついてゆっくり立ちあがった。 「俺を嗅ぎまわるのはやめろ。そういうつもりで俺のまわりをうろつくな」 そう吐き捨てて唐島世は立ち去ろうとした。 「ちょ、ちょっと待って!」 私はあわてて彼の腕をつかんだ。反射的に振りほどこうと彼は腕を振り、私はつい彼のコーヒーカップに横から手をぶつけてしまった半分ほど残っていた中身が、飛び散った。 「つっ……」 コーヒーは唐島世の右手首と制服の袖にかかってしまった。私はようやく我にかえり、ハッと彼の顔と袖を交互に見た。 「ご、ごめんなさい……!」 恐縮して身を小さくした私とは対照的に、彼はおもむろに制服の上着をぬいだ。シャツまで汚れないようにそっとまくると、ポケットティッシュをとりだして手首をぬぐう。 落ち着いた様子の彼とは反対に、私はますますあわてた。 「制服が……私クリーニングに……!」 彼の腕に抱えられた丁寧にたたまれた制服の上着をつかみ、私はとっさにそう言った。 「いい」 ぴしゃり、とそんな言葉が返ってきて、私は制服をはなした。 彼は無言でテーブルの上もティッシュで軽くふいてしまうと、スクールかばんを右手に持った。 「これだけは言っておく」 ふいに彼がそうきりだして、私は彼を見つめ返した。 「否定しなかったのは、否定する必要がなかったからだ」 とうてい答えとは言えない応えを残して、唐島世は店を出て行った。 「さっそくかみつかれちゃったのね」 こうなることを予想していたかのように、ヤマメさんは困ったように笑った。 前とおなじファストフード店で、私たちはまた小さなテーブルをはさんで座っていた。唐島世と本屋で別れて30分とたっていない。外はもう暗かったが、店内はあきれるくらい明るく、私たちは蛍光灯の下で夜ごはんをかねたハンバーガーを食べていた。 「かみつかれたっていうか……思いっきりつきはなされた感じ」 私は気にせず深いため息をついた。唐島世の言葉や態度を思い出すだけどんどん気が沈んでいった。 あんなにはっきりと敵意のようなものを見せつけられたのは、正直はじめてだった。一瞬で誰かと向き合うことに臆病になってしまった気がする。 「唐島世は男子からも女子からも人気があるけれど、誰とも本気でつきあわないことで有名よ。友達としても、恋人としても、ね」 ヤマメさんはジンジャーエールをストローでくるくるとかきまぜながらそう言った。 ヤマメさんは今日も黒のロングコート。あつぼったい感じがしないのは、おない年くらいの彼女の顔に幼さというものがほとんどないからだろうか。エレガント。そんな言葉がぴったりだ。 対して、私は幼さ丸だしの鮮やかな青の制服のそでをにらみつけ、それからヤマメさんに尋ねた。 「百合とも?」 ヤマメさんの顔が少しだけかげった。常に冷静な情報提供者の立場を守っている彼女にしてはめずらしい表情だった。 「さぁ……。……どうなんでしょうね。彼にも心からつきあえる人がいたのかしら」 私はかすかに眉を寄せた。本当に彼女らしくない。情報でも的確なアドバイスでもない、あいまいな言葉。 私には彼女が本当のことを知っているように思えた。どうなんでしょうと言葉をにごしながら、本当は真実を、少なくともそれに関する“情報”を、何か知っているのではないか。 私のそんな疑問をさえぎるように、彼女はつづけた。 「あなた本当にこのへんの高校生ならだれでも知っているようなこと知らないから先に教えてあげるけど、唐島世はよく言う“おぼっちゃん”よ。父親は大病院の院長。母親は何とか財閥のお嬢様。唐島世は王子様なのよ」 「王子様」 私はヤマメさんの言葉を反復し、心の中では別の言葉を口にした。 フシアワセな王子様。 まだよく彼を知りもしないのに、我ながらその言葉は彼にぴったりだと思った。 「人間の性格に一番影響するのって、やっぱり育ちかたとか、家庭環境だと思うの。唐島世のあーいう態度、そこに原因があるんじゃないかしら?」 私は無言でうなずいた。さぐってみる価値はある。 私の本当の目的は、百合のねがう、唐島世が“幸福”になるのを見守ること。もちろんただ彼が“幸福”になるのを指をくわえて待っているなんて性にあわない。けれど彼に近づけなければ何もできないのは事実だ。 私はめげそうになる心をふるいたたせた。明日も彼に逢いに行ってみよう。 「昨日はごめんなさい」 私は本屋の参考書コーナーを吟味していた唐島世にむかって、唐突にそうあやまった。 唐島世は一度極端にいやそうな顔をした。 「ためすようなことして……本当にごめん」 私は頭をさげた。反省の気持ちを伝えたいのはもちろんだったが、冷笑すらない昨日のような彼の顔を思い浮かべると逃げ出してしまいそうだったから。 しばらくそのままでいたが、彼の反応がないので顔をあげてみると、唐島世はくだけた顔で笑っていた。それは私のはじめて見る、自然な笑いだった。 「あんたさ、俺に逢ったらあやまってばっか」 私は笑われたことに率直におどろいたが、おかげで少し肩の力を抜くことができた。 「だって私、あなたに失礼なことばっかり」 「別にたいして気にしてない。……けどなんであんなこときいた?」 「……うわさはデマだって、早く確信したかったの」 唐島世は不思議そうな表情になった。背の高い彼はじっと私を見おろした。 「わからない。なんでだ? 目に見えるものに罪をおしつけてれば都合がいいだろ」 冷めた目。低い声。誰をたよるつもりも、いい加減なうわさを改めるつもりもない――それがはっきり伝わってきた。 私は心の中でもう一度口にする。フシアワセな王子様。 「……罪なんて……なかったんじゃないの?」 唐島世は大きく目を見開いた。そのまましばらく微動だにしなかった。二の句が出てこない、そんな様子だった。 「……あの、唐島くん?」 唐島世は私の声で夢から覚めたような顔になり、少しあわてたかんじでスクールかばんを持ちなおした。 「唐島くんはやめろよ。世でいい」 世は突然すたすたと歩きだした。喫茶店オールドブックの方向に。 「……せ、世?」 「おごるよ。なんか飲むだろ」 どうした風の吹き回しだろう。完璧にきらわれていると思っていたのに。 私は軽いおどろきを隠しつつ、なるべく自然に答えた。 「えっと、ミルクティ」 「んじゃ、俺は昨日飲みそこねたコーヒーにするかな」 ちらっと私を振り返って、彼はいたずらっぽく笑った。私は冗談にのれる心境ではまだなく、青くなって問い返した。 「せ、制服! しみはおちた?」 私は世の前にまわり、思わず彼の左手首をとった。昨日コーヒーをひっかけてしまった袖を見るために。――だが、私は別のものを見つけてしまった。――左手首にいくつも走る、赤黒い切り傷の痕を。 刹那の沈黙。私は戸惑いで言葉を発せず、世はほんの少しの間、そんな私を観察していた――ように思う。 彼は乱暴にではなく私の手を振りほどいた。そして右腕を差しだす。 「コーヒーかかったのはこっち。すっかりおちたよ」 なにごともなかったかのように穏やかな口調で言う彼に、まだおどろきから解放されない私はあわせるしかなかった。 「そか、よかった」 私たちはまた向かいあって腰をおろした。ミルクティーとコーヒーがやってきて、何口か飲んだ後、私たちは少しずつ言葉を交わしはじめた。決して、百合の話とか、さっきの彼の手首の傷跡とか、深いところにはつっこまない。たわいのない世間話や互いのちょっとした自己紹介だ。私たちは逢うのは三度目なのに、逢う前から名前だけは知っていたのに、それ以外のことは何も知らなかった。本屋に来たらよく行くコーナーや、よく行く喫茶店について話したり、互いの学校について話したりした。 少なからず最初は世に対してかるい男という印象を抱いてしまっていたが、それはむしろ彼がわざとそう見えるようにふるまっていたのだとわかった。少し話してみれば理解してくる。彼はそこらじゅうにいる、だらしなく制服を着くずして、香水やピアスをつけ、カッコつけたり悪ぶったりして見せる、まったくなかみのない学生たちとは違う。ヤマメさんの言う“おぼっちゃん”であるせいもあるだろうが、教養があり礼儀正しく道理がわかる、――そして――底知れない“何か”を感じさせるのだ。暗くて、ミステリアスで、刃物のようにいたいもの。知りたいような、決して触れたくないような、理解しがたいもの。 一時間ほどオールドブックで話して本屋を出るともう陽はおちており、私たちは帰路を途中まで一緒に歩いた。様相さまざまな人々が行きかうライトアップされた買物公園を、並んで歩いた。しんしんと冷え切った空気の中を。 買物公園には、一週間後の氷像コンテストに向けて、雪の土台がいくつもつくられていた。個人あるいは団体の参加者が氷の彫刻の腕をきそうのだ。すでに大きな直方体をした氷が運び込まれているものもあった。 途中、ショーウィンドウの中で流れる大型液晶テレビの映像に、世は目をとめた。7時のニュースだった。 『遺体で発見された○○さんは、周辺に散らばっていた大量の睡眠薬から服毒自殺とみられ――』 毎日のように報道される自殺や殺人のニュースにマヒしてしまっているからか、それは特に注目されるような事件ではないように思えた。だが世は食い入るように画面を見つめている。 「世?」 立ち止まったまま動かない彼に声をかけると、世はショーウィンドウから離れて、ぼそっとつぶやいた。 「まったく、うらやましい限りだ」 私は耳を疑った。 「うらやましい?」 見上げてみた世の目は穴が開いたようにうつろだった。うつろな空間の中に、何かを渇望する苦しみのようなものが見える。ついさっきまで喫茶店で少しうちとけて話してくれた彼とは、別人だった。――いや、垣間見えた彼の“影”が表に出すぎてしまっただけのことなのだろうか。 彼は私の言葉に何も返さなかった。彼の本心をつくことが怖くて、私はそれ以上なにもきけなかった。 そのまましばらく無言で歩いて、私たちのそれぞれ向かう方向が変わった。私は横断歩道をわたっていくが、彼は右に曲がるらしい。 「じゃあ、今日はどうもごちそうさま」 「ああ、じゃあな」 感情のない声だった。そのまま、世はすぐに背を向けた。 「ねえ!」 私は少し大きな声を出した。世が振り返る。 「――百合が好きだったの?」 世の顔に少しだけ感情が戻った。軽く眉をよせただけだったが、だいぶましだった。 彼は少しの間私を凝視したが、質問には答えず、すぐに背を向けた。 私はしばらく、小さくなっていくその背中を見つめていた。 「咲ちゃん……唐島世を好きになっちゃったの?」 ヤマメさんの思いがけない問いに、私は飲んでいたホットコーヒーで思いきりむせた。 「まさか。百合を……ひどく傷つけたやつかもしれないのに」 「でもそうであってほしくない。――でしょ?」 私はティッシュで口をおさえながら、まぁ、と答えた。 交差点で去っていく世の背中を見つめていた時――私は意識しないうちに願っていた。 誰も彼をかくさないで。 その姿を消してしまわないで。 そう、願っていたのだ。 少しずつ、彼のことを最期まであんじていた百合の本当の気持ちが、わかるような気がしてきた。 「ねぇ……ヤマメさん、世ね、誰かが自殺したっていうニュースにむかって、うらやましいって言ってた。それって、自殺したことがうらやましいって意味なのかな」 ヤマメさんは思いきり眉をしかめた。今までの余裕のある感じの落ち着いた笑みがあっという間にかき消えた。 「『うらやましい』って言ったの? 唐島世が?」 「うん。それまでけっこううちとけてたのに、そのニュース見てから急に……態度というか、雰囲気が変わっちゃって……正直、少しこわかった」 「……そう」 その時のヤマメさんはなにかに憤慨しているように見えた。なにかに――世に? 「彼に逢った人間は誰でも一度は彼に惹かれるの。なにか正体の知れない魅力にひきよせられてしまう。そして彼の核に近いところに少しでも心理的に接近したとき――恐れをなして逃げ出すか、それでも彼を受け入れようとするかは、人それぞれだったけど……そのほとんどが前者だった。私の知る限りでは」 「――恐れをなす?」 「彼が理解できなくて離れていった人もいたし……彼の心を受け止めきれなくて自分の心を壊してしまいやむを得ず身を引いた人もいた。受け止めきれない自分をひどく責めた人も」 「そうしているうちに――彼は誰とも本気でつきあわなくなっちゃったんだ」 「――そうね」 「彼の左手首に――リストカットの痕があった。あれは……」 「彼自身このへんの高校生の間では有名で人気者だから、彼がリストカッターであることも有名よ。でも彼を詮索することはタブーだとみんな知ってるのよ」 「……私はそのタブーをおかしてる」 ヤマメさんはあごに人差し指をあてて口をとがらせ、首をかしげて見せた。 「それが不思議なのよ、正直ね。いつもの彼なら、とっくにつきはなしてるか、あなたと逢った場所には二度とあらわれない。めずらしく心を開いてる」 「心を開いてるなんてとても言えない。はねかえされてばっかり」 「あなたを無視するようにならないだけすごいわ。変な言い方だけど、贅沢言っちゃだめ」 「はぁい」 私は間延びした返事をした。彼女は高校生にとって貴重な“情報屋さん”だが、妙に唐島世のことについて特にくわしいと感じるのは気のせいだろうか。 「私、だいじな百合にお願いされたから唐島世に近づいたけど……、もうそんなことどうでもいい。私がそうしたくてしてる。今突然百合があらわれてもういいって言われても、私やめないと思う。こうして……」 「こうして、唐島世の幸せを考えることを?」 「幸せなんて……きっと彼にとっての幸せなんて私にはわかりっこない。ただ、あんな目をもう見たくないだけ」 「きっと草加さんも……あなた自身がそう思ってくれるなら、それ以上のことはないんじゃないかしら」 ヤマメさんはいたわるような笑みを浮かべてうなずいてくれた。 「私、百合が世をどんなふうに思ってたか、少しわかった気がする」 それはほとんど独りごとだった。私は私とヤマメさんの間にあったフライドポテトを一本口にほうりこむと、彼女に礼を言ってファストフード店を出た。夕方5時。 ヤマメさんがまさか私を尾行してくるなどとは、考えもせずに。 唐島世を街に見つけても、私はいつものようにすぐには声をかけられなかった。 沈んでいく太陽がなげかける赤い光の中、世は少し年上の女性と並んで立っていた。 このあたりでは一番の高級洋服店から出てきたところのようだった。 私は二人の姿を、向いがわの歩道から見ていた。 世が女性の右手をとった。おしいただくように。 それは異様な光景だった。流れてる時間が違った。まるで従者と主人か、中世の騎士と貴婦人……あきらかに、二人のいるところだけ時代さえ異なっていた。 まさか――彼女が、母親。 私は裸の街路樹に隠れるようにして、遠くから二人を見つめた。 素人目にもひとめで高価とわかる、黒い革の細身のコート。大ぶりのバレッタでひとつにまとめられた豊かな髪。細いあご。鋭利な感じの目、高い鼻、高い背――ああ、世によく似ている。ヤマメさんの言っていた、大財閥のお嬢様。 世はといえば、こちらも今まで見たことのないくらい格式ばった服装をしていた。学校の制服とは比べ物にならないくらいきちんとした、真っ黒のスーツ。新調したばかりという感じだった。 世は彼女の手をとったまま歩道から一段おりると、扉をあけて待機していた高級車に乗るよううながす。世の手は始終、彼女のコートのすそや足元に気を配っていた。 後ろ座席に腰をおろした女性は、満足げに息子に微笑みかける。二人は手をはなした。控えていた召使らしき人が丁寧に扉を閉める。 世は深々と車内の母親に頭をさげた。ゆっくりと、黒塗りの高級車は道をすべりだす。 世はしばらく、遠ざかっていく車を目で追っていた。その時の彼の目は、自殺の報道に対してうらやましいと言った時によく似ていた。かた苦しいかっこうをしているからかなおさら、冷たい目に見えた。 世はしばらくすると肩の力を抜き、少し表情をゆるませてため息をついた。片方ずつ肩をならし、首をひねる。彼の疲れが、こちらにも伝わってきた。 体をほぐすと、彼は少し歩いて公共市民センターというところに入っていた。市にいくつもある、案内やいろいろな貸し出しサービス等をしてくれる市民のための公共施設だ。 少し外で待っていると、すぐに世は出てきた。先ほどとは一変して、彼はすごくラフなかっこうをしていた。下はジーパン、上はいつもの紺のコート。市民センターには貸しロッカーもある。そこで着替えてきたのだろう。 私はなんだかその彼を見てホッとした。やっと私の知る世が帰ってきた、そんな安堵だった。 彼は軽い足取りで買物公園を駅と逆方向にぐんぐん進んだ。氷像コンテストの参加者たちが大勢行き来していた。すでに氷を積み上げ、荒削りをしているグループもあった。 世はそんなコンテスト参加者たちの集まる一角で足を止めた。4人ほどで共同で荒削りをしているグループの中に入っていき、顔を赤くして作業をしている男たちに声をかける。 男たちと世はとても親しげに肩をたたき合っていた。背の高い世はがたいのいい大人の男たちと並んでも見劣りしない。砕けた表情で笑いあい、角をおとした氷のかたまりを示し言葉を交わしている。 しばらくおしゃべりしたあと、4人の男たちはそれぞれ別の方向に去っていった。 世は男たちに置いていったさまざまな工具から、大ぶりのノミを手にとった。 それからなぞるように氷塊に触れ、しっかり握ったのみでそれをけずりはじめた。その手つきは慣れたもので、あっという間にぼんやりとした人の形が見え始めてきた。 私は街路樹の影から抜け出ると、彼のいるところまでいった。 「すごいね、世ってこんなのつくれるの」 私は心から感嘆して言った。 世はつくっているところを見られたくなかったのか少しいやそうな顔をしたが、集中力を落とさないように氷に向き合ったまま答えた。 「ああ。他のやつにばれてない限り、知ってるのはあんたくらいかな。初めてやらせてもらってるから」 「初めて?」 「ああ。いくらなんでも練習もしないで出場するわけにはいかないだろ。中学のころから先輩に習ってた。今回、やっと任せてもらえたんだ」 そう話す世の顔は生き生きとしていた。 「でも高校生なんて世くらいじゃないの?」 「たぶんな。けど年齢なんて関係ねぇよ」 世は自分の背より高い氷塊を脚立の位置を変えながら手際よくけずっていく。陽は完全に沈み、氷に向かって設置された大きな照明と買物公園の街灯だけが彼の手元を照らしていた。ちょっと離れたところでも、他の参加者たちがそれぞれの作品に集中している。 「冬祭りももうすぐだね。これ、いつまでに完成させるの?」 「明日の昼」 「え、えぇえ? だってもう夜」 「徹夜だよ。当然だろ」 「徹夜って……こんな寒いのに、ずっとつくってるの?」 「あんまり時間をかけるのはよくねえんだよ。頭の中のイメージがくずれちまう」 「ふーん……」 私は手伝うわけにもいかないので、黙っていそがしく手を動かす世を見ていた。完成した氷像しか見たことがなかったが、すきとおったきれいな氷がだんだんと輪郭をはっきりさせていくその過程は、見ていてぜんぜんあきなかった。 時刻は7時をまわった。世が一度脚立から降りてきて、ノミをにぎりつづけた手を振りながら言った。 「帰んなくていいのか? 夕メシの時間だろ」 「……迷惑じゃなかったら、もう少しいてもいい?」 私はまだ帰りたくなかった。もっと見ていたかった。 「……別にかまわないけど」 私は許可を得て、近くのベンチに腰をおろした。世の手により、姿を現してきたのはほっそりとした女の人の姿。 「それ誰――?」 私は大声で訪ねたが、返事はなかった。一人で座っているのはさみしかったが、それでも真剣に氷をけずっている世を見ているのはなんだか新鮮で嬉しかった。 「ねぇ、休憩にしようよー」 私はどっさり食べものとあたたかい飲みものを入れたコンビニの袋をかかげ、脚立の一番上に座る世に向かって叫んだ。 「なんだ、いないから帰ったのかと思った」 脚立の上からこちらを見下ろし、世は目を丸くした。 「コンビニ行ってただけだよ。おなかへったでしょ」 脚立から降りてきた彼に私はまず缶コーヒーを渡した。 「はい。オールドブックには劣るけど」 「サンキュ」 私と世は並んでベンチに腰をおろした。買物公園には氷像コンテストの参加者以外ほとんど人はいなかった。もう10時を過ぎた。 あたためたおにぎりやホットドッグを食べ冷えきった体も少しはあたたまったころ、私はさりげなく聞いた。 「夕がた世と一緒にいた人、お母さん?」 また世の目が急に温度を下げた。私はしまったと思ったが、もう遅かった。 「見たのか」 鋭い視線で射すくめられ、私はどきっとした。 「世に逢いに行ったら女の人と一緒だったから――」 「それでここまで追ってきたのか」 私は小さくうなずいた。 世はしばらく黙っていたが、ひざに両腕をのせて空のカンをもてあそびながら言った。 「すごく疑問に思うことがある。なんであんた、俺に逢いに来る?」 とても近くから顔をのぞきこまれ、私は返事に窮した。 「……理由がなきゃいけない?」 「まったくないわけないだろ。だいたいあんた、突然本屋でおれに声かけてきたんだから。まさか一目ぼれしたなんて言わないだろ?」 「ち、違う。私はただ――」 言いかけて、私は考え込んでしまった。 ここで百合の名を出したら――百合に頼まれたと言ったら――きっと彼は今度こそ私に心を開いてくれなくなる。それに――もうそれは真実じゃない。百合に頼まれたからここにいるんじゃない。 逃げ出したい――これが、ヤマメさんの言っていた恐れをなして逃げ出すということだろうか。うそなら見抜かれる。覚悟がなければ足を踏み出してはいけない。そう思わせる世の暗く突き刺すような視線に、私はせいいっぱい向き合おうと思った。 「私はただ、あなたを救いたいと思っただけ」 彼の瞳から闇はうすれてもくれなかった。むしろ何かにおおわれてしまったように、奥が見えなくなってしまった。 「意味がわからない。話すようになってから1週間もたってないだろ。自分の言ってることわかってるか? なんか勘違いしてるんじゃねぇの?」 世は立ち上がり空き缶をそばのくずかごに入れた。手袋をつけずに、つくりかけの氷像を軽くたたく。 「そんなことない。1週間もたてばどんな人かくらいわかる」 「へぇ? 俺ってどんな人間だ?」 いい加減な口調でわざとらしくつめよってくる世に、私は少しずつ、恐怖を濃くしていく。 人の心に踏み込むことは、武器が使いものにならなくなる場所に行き丸裸で敵と対峙することとおなじだ。私ははじめてそれを身にしみて感じた。私にはまだ覚悟が足りなかったんじゃないか。 ベンチに座ったまま体がすくんで動かなかった。それでも、ヤマメさんが言っていた、結果的に彼から離れていった人たちとおなじにはなりたくなかった。 「世は……かわいそう」 世の顔が怒りにゆがんだ。私の背を寒気が走る。あっという間に体温が下がった気がした。 世がゆっくり私に近づいてきた。今まで見た彼の瞳で一番、冷たい光。それが私をその場に縫いつける。伸ばされた世の手はすぐに私の首をつかんだ。触れられたほうが凍りついてしまうような冷たい手だった。 「いい加減にしろ。どういうつもりだ」 私ののど元をつかむ彼の手に力は込められていなかった。私はキッと世をにらみつけ続けた。 「そうやって世はたくさんの人を遠ざけてきた。自分だけが傷ついてると思って。拒絶されることがどれだけ痛いことか、身をもって知ってるのに――」 世の手に突然力が入った。私はベンチの背もたれに押しつけられ、呼吸もままならない強さで首を絞められた。呼吸ができない苦しさよりも、きつくつかまれた首の痛みが耐えがたかった。 「黙れ。あんたになにがわかる。人のことを口にする前に、自分の心配をしたらどうだ。俺を救う? じゃあ一緒に死んでみるか?」 心臓がバクバクと音をたてて震えていた。怖くて逃げだしたくても、体が自由にならない。違う、本当に怖いのは、いつか完全に彼を暗闇が支配してしまうことだ。 私は、私の首を絞める世の右手首をつかんだ。自分の手だけ妙に熱かった。 「死ぬ? 私と死ぬことが救いになるの? 一緒に死んでくれる人がほしいの? 違うでしょ。本当は一緒に生きてくれる人が欲しかったのに、百合は先に死んじゃった。自分を受け入れてくれないまま――ううん違う、あなたが彼女の願いをちゃんと受け止めてあげられないまま――!」 私も必死に世の手首をつかみ返した。ひきはがすことはできなくても、抑制にはなる。 「勝手なことを言うな。何も知らないくせに――」 「百合は私の親友だった。彼女があなたのことをどう思ってたかくらいわかる。百合はとてもやさしい子だった。世が死にたがってることを、ほっとくわけない」 「黙れ!」 私の首を絞める世の手にさらに力がこもった。私は言葉も紡げなくなった。 「人のことを嗅ぎまわってなにが目的かと思ったら、わざわざそんなことを言いに来たのか。百合の親友だと主張する女はたくさんいたが、あんたほどバカなやつは初めてだ。俺を犯人にしておけばすむのに――」 最後の方は彼の独り言のように聞こえた。私はもうろうとしはじめた意識の中、その言葉の意味を考える。 世が百合を追いつめたといううわさを知らなかったというだけだが、今はうわさにうとい自分に感謝したい気持ちでいっぱいだった。うわさを知っていたら、最初から彼を責めなかったとは言い切れない。 世は私の首をつかむ手を左手に取りかえた。一瞬、痛々しいリストカットの痕が見えた。あたらしめの傷も見えた。 「正直に答えろ。百合に何を言われた」 私は目を見はった。彼から百合の話をふるのは初めてだ。 世は答えさせるために少し手をゆるめた。そのすきに叫んだ。 「百合は関係ないよ」 そのとたん、再び世の手の力が強まった。また私は言葉を奪われた。 その時―――― 世の背後から誰かの声がして、世の手が私の首から引きはがされた。 「いい加減にしなさい。また後悔したいの?」 なめらかな女性の声だった。私はようやく解放されたのど元をおさえ、ベンチの上で体を折り曲げるようにしてせき込んだ。突然あらわれたその人が誰かすぐにはわからなかった――が、想像はついた。ヤマメさんだ。 「あんたか――。あんたたちグルか」 世がとげのこもった声で応対するのが聞こえた。ヤマメさんは私をかばうようにベンチのそばに立っていた。 「グルとは失礼だわね。私たち何も悪いことしてないわ。……この前の時はかばってあげられたけど、今回はできないわよ。私は咲ちゃんの味方だから」 「この前の時? なんのことだ?」 私はまだ荒い呼吸をなだめながら、内心おどろいていた。もちろん二人が知り合いだったということにもだが――ヤマメさんの前では、立派な大人に見えた世が何まわりも小さく見えた。私とおない年くらいのはずのヤマメさんは世をまるで子供のようにあしらった。 「『唐島世が草加百合を殺した』っていううわさ、極力流れないようにしたのよ。それはデマだっていううわさすら流してあげたわ。百合のためだけどね」 「無駄なことを。百合の友達たちは俺を犯人にすることで納得して楽になりたいんだ。俺も否定はしなかった」 「自分に罪の意識があるから?」 「……さあな」 「別に私に言わなくていいわ。それにあなたが今まで誰にも心を許そうとしなかったのも、納得はいく。今まであなたにちょっかいを出してきた女たちは、何の覚悟も自覚もなかったもの。だけど唐島世、彼女たちと咲ちゃんを同列に並べるつもり?」 「…………」 「咲ちゃんはあなたのことをいろいろと尋ねてきたわ。知らなかったうわさの存在を教えてあげたりもした。でも彼女は私の伝えた“情報”をうのみにしたりしなかった。あなたと接することで、できるだけ直接あなたを知ろうとしてた」 私はようやく息を落ち着け、立ち上がってヤマメさんのとなりに行った。 「百合の死をあなたがどう受け止めてるかは知らない。だけど、唐島世。咲ちゃんを殺したりしたら、絶対後悔するから」 ヤマメさんはそう言うと世に背を向けて私を見た。 ヤマメさんは何も言わなかった。ただしっかりと私を見据えて、うなずいた。 「待ってヤマメさん!」 立ち去ろうとしたヤマメさんを私は呼びとめた。 ふりかえったヤマメさんは本当に大人の女性みたいだった。長い髪が冷たい空気の中輝いているように見えた。 「百合と……親しかったの?」 ヤマメさんは申し訳なさそうに笑った。 「黙っててごめんなさい。百合は義理の妹なの」 「……え?」 おどろきを隠せない私のうしろから、世が口をはさんだ。 「あんた、百合を憎んでたんじゃなかったのか。父親を奪われて」 ヤマメさんはまっすぐ世を見返して、それからうつむきがちに言った。 「憎んでたわ。――死んでしまうまでは」 おどろきの事実に私はそれ以上声をかけられないまま、ヤマメさんは行ってしまった。 私と世の間に居心地の悪い沈黙が流れた。 一度は殺されるかと思った相手だ。本当はここでいち早く家に帰るべきなのだろう。 ベンチには散らかったままのコンビニの袋や包装のフィルム。私と世の横には、つくりかけの氷像。 遠くでは別のグループの声がするが、先ほどからこちらの騒ぎに気づいた様子はない。車も人もめったに通らず、私たちには互いの息遣いや寒さに鼻をすする音ばかりが聞こえていた。 「さっきは……悪かった。首を絞めたりして――」 立ち尽くしたままの私の横を通りベンチに腰をおろした世は、気まずそうにそう言った。 「わ、私こそ。言いすぎた……」 「――座れよ」 世は自分のとなりを示して言った。私はかなりためらったが、なるべく世から離れたベンチの端っこにおそるおそる腰をおろした。 世が口を開くのを躊躇しているのが感じられた。恐怖は完全には抜けきらないが、私は気長にそれを待つことができた。 深く息を吐き出し、世はやっと口を開いた。 「百合とは――何カ月か、つきあっていた。すぐに入院しちゃったけどな。百合は人の気持ちに敏感で、すぐに感づいた。俺が……日々何を考えてるか。リスカや、外と家での違いにも。ちょうど、あんたみたいに」 世は話しながらその時の記憶をたどっていた。私は彼が自分から語るのをだまって待った。 世をおもう百合の気持ちは痛いほど感じた。世のことを好きだったならなおさら、彼女は眠れないほど彼の幸せを思っただろう。 「俺は――俺のためを思ってしてくれているあいつに腹が立ってしかたなかった。なんでほっといてくれないんだろうって。口出しさえしなければうまくいくのにって。俺はあいつにひどいことを言った。思いきり拒絶した。あいつが体調を崩してまた入院するようになったのは、その頃だった。あの時あいつを傷つけたりしなかったら? うわさを否定しなかったのは、そのせいだ。俺が追いつめたのは事実だ」 体調を崩したのが世のせいとは限らない。ただ病弱な彼女にはささいなきっかけが災いとなった。世につきはなされたことが彼女にとってどれほどの痛みになっただろう。 けれど彼女は決して自分のつらさを盾に相手を責めたりしない。自分を哀れんだりしなかった。 「百合が入院してからも――彼女のお見舞いに行ってあげた?」 私はきいた。 「え? あ、ああ」 「彼女、世をどんな時でも笑顔で迎えてくれたでしょう。心から、来てくれたことを喜んでくれたでしょ」 世は眉を細めた。その時のことを思い出しているのだろう。 「百合って本当に不思議な子だった。ずっと入院入院で気がふさいでいるだろう彼女を喜ばせてあげたくて私たちお見舞いに行くのに、彼女に逢うと逆にこっちがうれしくさせられちゃうんだもの。お見舞いに行くがわの立場がなかった」 私は苦笑いして言った。彼女の包み込むような笑顔と、「きてくれてありがとう」という声を思い出しながら。 世はそのまま黙りこんでしまった。長いあいだ百合のことに罪の意識を感じていた彼には、時間が必要なのだろう。 私は23時42分と示したケータイを見て、そろそろ帰らないと父親の雷をくらうと思いコンビニの袋にごみをまとめた。 未完成の氷像を見上げた。ずいぶん彼から時間を奪ってしまった。明日の昼に完成するだろうかと少し案じる。が、これ以上自分がここにいても何もできない。 「私――今日は帰るね。邪魔してしまってごめんなさい」 顔をあげた世の目にはもう怖い光は見当たらない。――いまだざわめいてはいるけれど。 「明日の昼――また来ていい? 完成した像、見に来るから。だから……がんばって」 世はまだすっきりしない顔で何度かうなずいた。 「――じゃあ、おやすみなさい」 私は世に背を向けた。彼の視線を感じながらちょっと歩いて――ふりかえった。 「ほんとはねっ、百合にたのまれたの。世が幸せになるのを見届けてって」 世は目を丸くした。私は小さく笑い、つけたした。 「でも今は、だからここにいるんじゃないよ。百合の願いは、私のものになったから」 世はじっと私を見てきた。私の真意をまださぐるように。 私は今度こそ背を向けた。最終のバスを逃すまいと、小走りでそこを立ち去った。 ◇ ◇ ◇ 翌日、私は4時間目の授業が終わるとてきとうな理由をつけて早退した。ずいぶん久しぶりの雲ひとつない空。いつもよりわずかに寒さがゆるんで、心地よい午後だった。教室で授業をうけているだろう友人たちに少しだけ申し訳なくなった。 買物公園に出ると、すでに完成した氷像がいくつも淡い陽光を浴びて輝いていた。海草のあいだを泳ぐ海の生物、魚をくわえた躍動感あふれるクマ、竜や羽根のある馬などの想像上の生き物、槍や矛をかかげた東欧の神々たち。毎年この時期には今みたいにたくさんの氷像が並ぶ。今年特におもしろいのは氷の箱に閉じ込められた氷の人魚や、日本庭園をかたどったものだ。 平日のお昼どき、さすがに学生の姿はほとんどなかったがそれでも買い物にきた大人たちがそれぞれ氷の美術展を楽しんでいた。あちこちでカメラのシャッター音がした。 すべての像が完成していたわけではなく、最後の仕上げに集中しているグループがいくつかあった。 世は完成させたのだろうか。あれから、約半日が経過した。 ドラゴンを従えた男神の氷像の向こうに、世の姿がちらりと見えた。脚立の最上段から、なにやら女性の像の顔の部分を細かくけずる作業に熱中している。世の表情は真剣で、声をかけるのははばかられた。 私は像の目の前まで来ると、もうじき完成するだろうその女の人を眺めた。女性の顔は世の手で見えなかったが、ロングワンピースの半袖から伸びたしなやかな腕にはユリの花が何本もかかえられ、まわりには年齢さまざまなかわいらしい子どもたちが女性を囲むように集っていた。子どもたちは笑い、彼女のスカートの裾をつかんでいる。それぞれの子どもの腕には絵本が一冊ずつかかえられていた。 世の作品は、今回買物公園に並ぶ作品たちの中ではめずらしいモチーフだった。多くの作品は剣や槍や冠や、はなやかな衣装、ゴシックなどの模様に技巧をこらしているのに対して、世の作品はほぼ複数の人間だけで構成されている。ごくシンプルなものだった。 世が脚立からおりてきて、私に気がついた。 「ほんとに来たのか。学校は?」 「朝からさぼってる世に言われたくないね」 私は小さく舌を出して肩をすくませて見せた。なんだか夕べの恐れも意地もぜんぶ吹っ切れてすなおな気持ちで話せた。世も、疲れてはいるがとてもさっぱりした顔をしていた。 世は少し像から離れたところに行くと、しばらくじっくりと自分の作品を眺めはじめた。私は像から目をそらし、彼が納得するのを待った。 世は像のまわりをなんどもぐるぐるまわってずいぶん長いこと作品を吟味していた。公の場に出す初めての作品だ。納得のいくものにしたい気持ちがいっそう強いのだろう。 「よし、完成だ」 とうとうお許しが出た。私は像の正面に立つ世のとなりに並んで、まっすぐに昼の光をうける氷像を見た。 「・・・・・・百合・・・・・・」 私は思わずつぶやいていた。 彼女は――その氷でできた女性は、まぎれもなく百合だった。 やさしいまなざしの少女のもとに駆けよる子どもたち。そんな彼らを、少女は愛情にあふれたまなざしで見下ろす。少しだけ腰をかがめて。 子どもたちは彼女のスカートの裾をつかみ、「本を読んで」とせがむ。自分の持ってきた本を読んでもらうために、子どもたちは競いあって彼女のもとにやってくるのだ。 それは病院で知り合った子どもたちと遊ぶ百合の姿にほかならなかった。 彼女を見舞いに行ったとき、よく見た光景だ。子どもたちは、なかなか百合をはなしてくれなかった。 私は知らずこぼれてきた涙をぬぐった。ケータイにはった写真を眺めるよりもずっとリアルに百合を思い出せた。それに胸におしよせてくるのは失った悲しみだけではなかった。苦しいなつかしさだけでもなかった。 あまりに早く命を落とした――彼女のやさしさを、いつくしみにあふれた笑顔を知り、愛してくれた人がここにもいた。そんな感動が、おしよせた。 「どうもありがとう」 私はとなりで満足げに氷像を見つめる世を見て言った。 「それは俺のセリフだ。・・・・・・昨日のことがなければ、納得のいくかたちにはできなかったと思う」 私はやっと涙を止めると、氷像のすぐそばに立つタイトルと制作者の名が彫られたプレートに近寄った。 タイトルを見て私は思わず笑みがこぼれた。 「『Lily』」 それが、たんに彼女の腕に抱えられた花の名ではなく、またたんに「純粋・きよい」という意味の形容詞でもなく――彼女自身の名なのだと知っている人がどれだけいるだろう。 by 伽沙 |