「私、同じクラスの上谷くんが好きなんですけど……、告白した方がいいですか?」
 午後の5時、秋の夕陽が照らす部室で、私は後輩の女の子にそんな相談をうけた。
 卒業していった先輩方の、必死の受験勉強のあとの残る参考書や、いろんな作家の小説、漫画が乱雑に並んだ本棚。日持ちのするお菓子や、部員の小説の原稿、フロッピーディスクなどが散らばっている机。何もかもがとにかく古くて、長い年月が経ていることを感じさせる文芸部の部室だが、それすらも夕陽が美しく染め上げてくれる。美しい時はあっという間で、少しずつだけど夕闇が忍びよってきているのが屋内にいてもわかる。
 1歳年下で2年生の後輩は、夕陽に染まった頬を恥らいでさらに赤くして、上目づかいに私を見つめて返事を待っていた。
『同じクラスの上谷くん』
 私に与えられた情報はそれだけで、よいアドバイスができるはずもなかった。
「それは……亜矢ちゃんの気持ちによるよね。告白した方がいいかは別に、亜矢ちゃんはどうしたいと思ってるの?」
 ショートカットのかわいい亜矢ちゃんは、どうしてそんなことを聞くのだろうというように目を丸くした。
「もちろん、付き合いたいです」
 私は後輩の言葉に、気付かれないようにそっと眉をひそめた。
 『もちろん』と、当たり前でしょと強調する亜矢ちゃんに、疑問を感じた。
 生まれた胸の突っかかりは、私に過去の痛みや苦みを思い出させる。
 好きだから、付き合いたい。両想いだから、恋人。
 それが当然だと思っていた頃。
 想いの成就が両想いになることだと思い込んでいた頃。
 私も亜矢ちゃんのように、相手の気を引くことに必死だった。
 それは一途だったかもしれないけれど、優しさや思いやりがなかった。
 自分のための恋だったから。
「……福山先輩?」
 私は自分が過去のもの思いにとらわれていたことに気付き、軽く息をついた。
 少しの間口を閉ざしていた私を、亜矢ちゃんが不思議そうに正面から見つめている。
「ごめんね、私も自分のこと思い出しちゃって」
 私は亜矢ちゃんに先輩らしい落ち着いた微笑みを向ける。
 亜矢ちゃんは楽しそうに目をキラキラさせた。
「先輩の恋愛ですか?」
「恋愛なんてしてないよ。片思いの思い出、かな」
 亜矢ちゃんは確か私の片思いしていた相手を知っているはずだった。その時はけっこう部内で有名になってしまった話だったから。
 本当は、思い出なんかじゃない。思い出になんてまだなっていない。
 私は少し考えると、ちょっとしたイタズラをする気持ちで口を開いた。
「その人は今、遠くに行っちゃってるの」
 私はわざと、亜矢ちゃんの知らない人の話をするような口調で語った。
「遠くって……、え、え……っ?」
 亜矢ちゃんは私の言う片思いの相手が自分の予想していた人と違ったのかと慌てているのだろう。
「遠くって……、近くにいるじゃないですか、羽山先輩。今は、受験勉強で忙しいかもしれないですけど」
 心から不思議そうに聞いてくる亜矢ちゃんに、私は意味ありげにひっそりと微笑んだ。
 葉山は2年後半の時からの私が片思いしている人だ。天文部の部長だったが、言葉に触れることが好きで――彼はいつもなかなかいい俳句をつくった――、よくうちの部活にも遊びに来ていた。
 最近はほとんど部室にも現れない。クラスは隣だが、時々顔は見るけれどもう何日も言葉を交わしていない。めったに逢えないのが、難関大学を受ける彼の受験勉強が忙しいせいだけではないことを、私は知っている。
 それでも、1日も思い出さなかったことはない。
 今日はどんな顔をしているだろうか。昨日よりは少しは明るい顔をしているだろうか。友達と笑いあえているだろうか。
「近いけど、遠くにいるの。私は、こっちに戻ってきてくれるのを待ってるんだ」
「こっち……?」
 私は亜矢ちゃんの目を見据えてうなずいた。
 彼女は、なぞなぞの答えに悩むように、うーんとうなっている。
 私は静かに笑って、亜矢ちゃんの思考を止めた。
「気にしないで。独り言みたいなものだから」
 亜矢ちゃんはまだ納得のいかない顔をしていた。その様子は過去の私に似ていた。
「それより、亜矢ちゃんの恋のお話の続き。私は、告白した方がいいと思う」
「ど、どうしてですか?」
 亜矢ちゃんは身を乗り出して聞いてきた。
「どうして告白しない方がいいと思うの?」
 私の落ち着いた問いかけに、亜矢ちゃんは一瞬言葉をつまらせた。
「……だって、ふられちゃったら気まずくなっちゃうかもしれないじゃないですか」
 私は以前の自分を思い出し、苦笑した。
「そうねぇ、私もそのときはそれを心配して迷ったわ。告白して気まずくなっちゃうくらいなら、今のままでいいんじゃないかって。だけどね、思ったの。『今のまま』って何? 好きって伝えただけで、どうして気まずくならなければいけないの? 何も悪く変わることなんかない。もし好きって伝えて、それで相手の人が急に冷たくなったり話してくれなくなったりするようになるなら、それはその人に器量がないの。そんな人はやめた方がいい」
 亜矢ちゃんはしばらく押し黙って考え込んでいた。
 いろいろな方角から聞こえてくる吹奏楽部のパート練習の音に耳をかたむけながら、亜矢ちゃんの反応を待っていると、彼女は難しい顔で尋ねてきた。
「先輩の言うこと、何となくだけど分かりました。……でも、じゃあ好きだから付き合いたいって思うことっていけないことですか?」
「全然いけないことじゃないよ。好きだから、もっと深い仲になりたいって思うのは自然な流れだと思う。ただ、勘違いしないでほしいのは、『付き合いたい』って思うのは『好かれたい、愛されたい』と思っていることであって、『好き』という感情とはイコールじゃないってこと。『付き合いたい』って思うってことは、ただ『好き』だけでなく、自分は相手に好かれたいんだ、相手からの見返りを期待してるんだっていうことを、自覚していて欲しいの。恋人になりたい気持ちは、『好き』とは違う」
 静かに断言した私は、自分が1年前からの恋を引きずり続けていることに改めて気付く。胸の内にひっそりと息づいていた気持ちが、いま静かにひとつその鼓動を打つ。
 亜矢ちゃんは、私に向かって一度小さくうなずいた。大きな瞳からは、弱いながらも彼女の心の動きが感じられた。
「先輩は……羽山先輩に告白したんですよね?」
 唐突な問いに私は自分の頬が赤くなるのを感じながら答えた。
「したわよー。あれは今までの告白でいちばん意味がある告白だったかも」
 私は恥ずかしさを隠すためににっこりと笑ってみせた。
 亜矢ちゃんが期待の目を私に向ける。
「羽山先輩、なんて答えたか聞いてもいいですか」
「それはヒミツ。もう今さら誰かに話すことじゃないのよ。でも、亜矢ちゃんは私と羽山が付き合ってないのは知ってるでしょ? 結局、私たちの関係は何も変わらなかった」
「先輩、告白したあと気まずくならなかったんですか?」
「うーん、最初はね。『今までどおり接しよう』ってお互いが意識しすぎて、ギクシャクしたかな。でもすぐにいつもどおりに戻れたよ」
「そうですか……」
 すごいですね、とうらやむため息が聞こえてきそうな亜矢ちゃんの言葉に、私は苦笑して続きを待った。
「私――……」
 亜矢ちゃんが口を開いた。
「私、告白してみようかな」
 そう言って彼女は私の表情をうかがった。
 私は亜矢ちゃんのその言葉を心から嬉しく思い、大きく微笑んだ。
「がんばって。勇気がいることだけど、告白されていやな人なんていないしね」
「先輩に相談してよかったです。勇気がわいてきました」
 亜矢ちゃんは無邪気に笑ってそう言った。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。役に立ててよかった」
 二人しかいなかった部室にはなんとなく帰る雰囲気がただよい始めた。
 部室から見えるグラウンドはすでに青黒い夕闇に支配され、背の高いライトの明かりが白く際立っている。
 夕陽の射し込まなくなった部室の机や本棚は、冷たい蛍光灯の光に照らされている。人工の明かりの降る部室は、なんだか少しよそよそしい。
 私たちはそれぞれの上着を羽織ると、リュックを背負い電気を消して部室を出た。
 6時をまわった廊下は、吹奏楽部のパート練習も終わりしんと静まり返っている。活動を終えた運動部の女の子が着替えを済ませて、頻繁に部室の隣の更衣室から出て行った。
「じゃあ、私カギ返しに行くから、先帰ってていいよ」
「はい。今日はほんとにありがとうございました」
「どういたしまして。――あ、そうだ。言い忘れてたんだけどね。……『告白しない方がよかった』っていう恋はしないで」
 亜矢ちゃんは驚いたように目を見開いた。
 私はそれ以上亜矢ちゃんが口を開かないように、片手をひらひらと振った。
 亜矢ちゃんはしばらく瞬きをしていたが、小さな頭をぺこりと下げて、生徒玄関へ続く薄暗い渡り廊下を早足で行ってしまった。
 私は手に持っている鍵で部室を施錠すると、職員室に行きそれを所定の場所に返却した。
 ひんやりした廊下。季節を感じさせるものなど何もないのに、なぜだか冬が近いことを感じてしまう。幾度かすれ違う先生とあいさつを交わし、私は玄関にたどりついた。
 外はもう真っ黒い闇に塗られていた。生徒玄関には人けがない。私は心細い気持ちをかき消して外へ出た。
 出たとたん、まだ寒さに慣れていない私の体を冷気が容赦なくおそった。私は両手を上着の大きなポケットにつっこみ、冷気のまとわりつく首をひっこめると、駅に向かって早歩きで歩き出した。
 すれ違う人々はみな一様に、体をちぢこまらせている。時おり、寒さ知らずの学ランの高校生の群れとすれ違った。こんな時間になっても襟をだらしなく開けたままの彼らの、大きく笑い合う声が、いつまでも背後で聞こえていた。
 目的地の駅までは、碁盤の目状の道だから、どこを曲がっても問題ない。私は信号が青の道を渡りながら、かくかくと気まぐれな順路で夜の街を進んでいった。
 私はふと、ローソンの前で足を止めた。
 雑誌の並ぶコーナーがこちら側を向く大きな窓が、白い光を歩道に投げかけている。
 私の脳裏に、苦い残像が浮かぶ。
 となりに羽山がいて、なにげなく寄ったコンビニで、一緒にお茶を一本ずつ選んだ。私は友達としての態度を崩しまいと、いつもどおりの笑顔で軽い冗談を言い合う。いつかこの気持ちを打ち明けたい、そんな想いを強くして。
 窓の向こうの商品が陳列する店内を見つめ、私はそんな二人の姿がまだ見える気がして仕方ない。
 雑誌を立ち読みしている中年の男の人と目が合ってしまい、私は慌ててその場を立ち去った。情けない。
 私は夜の街を、頭の中を羽山との思い出をいっぱいにして歩いた。いつ思い出してもあせない記憶が、胸をしめつける。
 寒さに背中を小さくして早足で進む羽山のあとを、私は無邪気について歩いた。「早いよー」と文句を言いながら。
 今でも、ふとした瞬間羽山の背中が私の前に現れる。無心にそれを追いかけた1年前の気持ちを思い出す。夜の帰り道、一人じゃない温かさ。
 その背中の幻影が何かの拍子でかき消されると、私は誰もいない両隣をとても寒く思った。
 彼は私を一瞬憎んだかもしれない。
 異性間の友情という、難しい均衡を保ち続けていた関係を、壊そうとした私を。
 私に告白された羽山の気持ちを、私は痛いほどわかっていた。
 だから伝えることで精一杯だった。とてもそれ以上を求めることなんてできなかった。
 特別な想いなんてもらえなくても、今までみたいに楽しい友達としていられればそれでいい。そう思うことにした。
 私たちはわずかな期間をはさんで、何もなかったかのようにバランスをとりなおした。
 仲のよかった日々に戻ったはずだった。なのに、よけいなおまけまでついてきてしまった。
 それは、初めて知った痛み。大切に温めてきた想いを、なかったことにしなければならない痛み。
なかったことにして、笑わなければならない痛み。
いつか笑える日くる。
 そんな言葉があるけれど、笑って思い出せる思い出になんてできない出来事もある。
 いくつもの感情を思い知らされた。
 私は空を見上げた。
深い闇が待っている。星は見えない。いくつものまるい街灯が煌々と冷たく光っている。まるでニセモノの満月のように。
 ほんものの月はどこだろう。
 きっと、月の光は街灯の光よりも弱いのだろう。電球の明かりに目がくらんだ私たちには、届かないのだろう。
『近いけど、遠くにいるの。私は、こっちに戻ってきてくれるのを待ってるんだ』
 部室で私が亜矢ちゃんに言った言葉。
 私は、相手には少しわかりづらい言葉をわざと口にするのが好きだ。くせになってると言ってもいい。
 相手に対するメッセージを含めた不思議な言葉が、少しでも相手の心に残るように。
 遠くにいる羽山が、こっちに戻ってきてくれることを待ってる。
 待つことに決めた時の、自分の気持ちを思い出す。
 あきらめもあった。だけど彼に託す気持ちが強かった。
 いつか、自分の力で戻ってきて。
 いつか彼を愛さなくなっても、私は永遠にそれを待ち続けるだろう。待ち続けることができるだろう。
 羽山をまだ信じている。彼の、誰も知らない心の底を。



by 伽沙



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