瞳が好きだ。
 それがはじめて栢山と逢ったときの感想だった。
 鋭くて、かしこそうで、なにか深く暗いものを抱え込んだ瞳。
 どこか、触れてはいけないような危うさや、ギリギリのところで踏みとどまっているようなバランスの悪さをひめた、怖いけれど惹きこまれるような、すうっと黒い昏い目。
 部室で互いに自己紹介をしたときに驚いたが、彼はびっくりするほど社交的だった。それでいて、誰に対しても印象のいい笑顔を絶やさない彼は、冷たくほほえむことで壁をつくっていた。それらすべてひっくるめて、私には魅力的だった。
 こんな印象の人に今まで出逢ったことのなかった私は、栢山がすごく不思議な存在だった。
彼みたいな人はどこにもいない。

「最後に使ったのは栢山でしょ?」
 私は問いつめるような口調で訊いていた。
「そう、いや、ちょっと待て。俺を疑ってるな?」
 栢山は腰をかがめて私の顔をのぞきこんだ。ほかの誰がやってもカチンとくるのだが、栢山だけは気にならなかった。
「だって最後に使ったんなら当然じゃない」
「いや、だから待てって」
「なによ、はっきりしなさいよ。使ったの、使ってないの?」
「使った。使ったことには間違いない。けど俺は部室を開けて机に置いておいたんだ。なくしてなんかない」
「じゃあなんでないのよー勝手に出ていったっていうの?」
 ここまで読んでもらえればおわかりだろうか。
 私たちは大事なものを探している。
 部室のドアのカギだ。放課後すぐに開けたはずの部室がなぜか閉まっているのに、カギが職員室の所定の場所に返されていなかったのだ。なかには、私と栢山の荷物が閉じ込められている。
「全く見当がつかないなぁ」
 私はあたりを――あたりというのは部室前の廊下だ――見回した。まるでカギがそこらへんをほっつき歩いているのではないかというように。
 もはや私は栢山を責めてはいなかった。ただカギがないのは責任問題なので、途方に暮れてしまう。部員全員に、カギを持っていないことはすでに確認した。
「とにかく矢部に言いに行くか。マスターキーかなんかあるんだろ」
 ため息をつきながら栢山が言う。矢部というのは顧問の矢部雅史先生のことだ。そうだね、とうなずいて、私と栢山は職員室に向かった。
 放課後の廊下。それぞれの教室には冬の薄い夕陽がさしている。清掃後のきれいに並んだ机がやさしく照らされ、生徒の勉強の場がとても神聖な場所に見えた。
 まっすぐ前を向いて歩く栢山とは反対に、私は忙しくよそ見しながら歩いた。ホテルのカギみたいな、一緒にくくりつけられている青い透き通ったプラスチックの四角い棒に、にょっきり長い足が生えて廊下やら生物教室やら家庭科室を歩きまわっている姿を想像する。なんだか「カギのおばけ」が夢に出てきそうだった。
 部室と職員室は、長方形の校舎でちょうど対角の位置にある。つまりもっとも遠い場所だ。1年生の7つの教室と、いまだに名前が覚えられないなんとか準備室や第二なんとか室の前を通りすぎる。「カギおばけ」が頭からはなれない私は、整然とした教室の隅のイスにちょこんと腰をおろすその姿を想像する。きっとこういうのをキモカワイイというんだと一人で納得していた。
「なあ」
 ふいに栢山が口を開いた。
「ん?」
 私は一度「カギおばけ」からはなれて栢山を見た。彼は前を向いたまま、続けた。
「進路希望調査、なんて書いた?」
 進路希望調査。ほこりっぽい冬のにおいのする長い長い廊下を並んで歩く私たちに、それはひどく遠い響きに聞こえた。進路希望調査。
「意外。栢山ってそういう話自分からするんだね」
 私はすなおに感想を口にした。栢山は普段からちょっぴり寡黙で特に自分のことに関しては自ら話そうとはしない。同じように人の事情にも首を突っ込まない。
「意外? そうか?」
 彼はかすかに首をかしげた。
 ちょっとのあいだ沈黙がおりる。
 吹奏楽部のパート練習の音。とぎれとぎれのフルート。聞き覚えのあるメロディは、たしかディズニーの曲。
「私進学しないの」
 顔を見なくても栢山の驚きが伝わってきた。それも無理はない。市内きっての進学校だ。現役合格するかは別として、大学受験率はほぼ100パーセント。私みたいなのは皆無に等しい。
「……ふうん、そうなんだ」
 間の抜けた反応。私は彼の知らぬところで軽い驚きにとらわれていた。
 彼はどうしてとは聞いてこなかった。
「進学しない」と言った時に理由を聞かれるのが私はきらいだった。だって「進学する」とこたえるのは当然で進学しないとなるとどうして理由を答えなければいけないのか。「進学校だから」というのは意味をなさないと私は思う。
 理由を問わない彼に居心地のよさを感じて、私はひっそりと微笑んだ。冬の午後の、満ち足りた瞬間。
 再びゆるやかな沈黙。誰かといるときの沈黙を気まずく感じないのは、むしろ心地よく感じるのは、ものすごくすてきで幸せなことだ。そんな人にはなかなか出逢えない。
 たとえば私はずっとこのまま栢山が次の言葉を紡ぐのを待ち続けていてもいいような感覚にとらわれる。たとえば、ずっとこのままえんえんと廊下が続いて、永遠にどこにもつかなくてもいいような気分になる。
 この気持ちをなんというのだろう。恋とか、そんな単純なものじゃない。ただこの道が――廊下がそのうち終わってしまうことを考えると、すごく苦しくなる。切実に、少しでも長く続くことを願っている。
「小説家になりたいんだ」
 彼はたとえば私の担任のように「じゃあ○○大学の文学部にすればいい」とは言わない。それをわかっているから私は将来の夢の話にとぶことができる。
「へえ……。部活、真剣だもんな」
「うん。本気だよ」
 私がそう言ったところで、職員室についてしまった。うす暗い廊下に飴色の光を投げかける職員室のガラス戸があたたかで、私はそれほど落胆はしなかった。
 失礼します。
 私はそう言ってなかへ入った。栢山がすぐ後ろに続く。
 矢部先生はすぐに見つかった。事情を話すと、とりあえずマスターキーで部室を開けてくれると言った。栢山が念のため自分の教室の机を見てくると言ったので、私たちは矢部先生と別れてまた廊下へ出た。別れぎわの、矢部先生の私を見る気がかりそうな目が、なんとなく心にひっかかった。
 職員室と反対方向へ続く廊下は、吸い込まれるように暗く感じた。ひやっとした空気が窓のうめられないわずかなすき間から流れてきている。外は青い闇。
「マスターキーで開けてもらえるのはいいけど、本物のカギが見つからなかったらどうなるんだろ」
「さあ? 新しくつくってもらえるまでマスターキー借りるか、最悪しばらく使えないかもな」
 栢山はいたずらっぽく笑った。くせのある彼特有の、かげった笑み。
 私はその昏い瞳に惹かれるが、同時に心細くなる。
「笑ってる場合じゃないでしょうが。やだよ、部室は私のオアシスなんだから」
 私はカギがないことをたいして気にしていない栢山を咎めるようにそう言った。
 何にも執着しない彼を見ていると、いつも悲しくなる。私が愛しているものを、同じように愛してほしいと思う。傲慢なことだろうか。
「オアシス」
 栢山は私の言葉をくりかえした。まるで慣れない言葉をこわごわ扱うように。
「そう、オアシス」
 私は軽く力を込めて言った。ほとんど無意識に。
 栢山はちょっと黙ったあと、躊躇しながら口を開いた。
「速水さ、よくつかれないね」
 私は驚いた。まったく彼の言いたいことがわからなかった。
よくつかれないね、と言った彼の方がよっぽど何かにうんざりしているようなつかれた顔をしていた。なんだか自分が悪いことをしている気分だった。
「……ど、どうして?」
 栢山は、不思議そう、というよりは疑うような顔で、私を見ていた。
「よくそんなに……」
 彼はそこで口をつぐんだ。
「そんなに、なに?」
 私は無性にさきが気になった。だが彼は首を振った。
「いや、やっぱりいい」
「なによお、気になるじゃない」
 私は頬をふくらませてふてくされた様子をつくった。それでも彼は何も言わなかった。
 そのあと、栢山はすっかり暗くなった自分の教室に入って、机を確かめた。やっぱりカギはなかった。
 仕方なく二人で部室に戻って、私は唖然とした。カギは依然として、矢部先生の開けてくれた部室の机にあった。
 状況の飲み込めない私をよそに、栢山はやっぱり、とため息をついた。
「え? 栢山、部室にあること予想範囲内だったの?」
「あたりまえじゃん。部員がだれも持ってなくて職員室にもないんなら、一番可能性ある場所だろ。おおかた、警備員の人が勝手に閉めちゃったんじゃないの?」
 私は自分のよみが甘かったことに恥じ入りながら、あれ、と思った。
 栢山はカギが閉められた部室に置きっぱなしになっていることは一番可能性の高いことだとわかっていた。それなら、教室になど行かず矢部先生が部室を開けてくれるのをすなおに待てばよかったはずだ。
「…………」
 私はその意味を考える。都合のいいとらえ方をして、ひとりでにやけてしまった。
「なにひとりで笑ってんの」
 栢山に不審げな瞳を向けられて、私はあわてて口元を引き締めた。
「私もう帰る。栢山は?」
「俺も帰るかな。もう誰も来ないみてーだし」
 私たちは部室のカギを閉め今度こそ職員室にかえすと、玄関に出た。
 黒いカチッとしたコートを着た栢山は、なんだか校内で見る彼とは違って見えた。私とは全く別の世界にすむ大人、そんな感じがした。そういえば彼はやけにまだ私たちが知らなくてもいいようなことに詳しかった。タバコとかお酒とか、そんなわかりやすいものだけでなく、もっとドロドロしたものに。彼は背伸びして無理やり大人に近付こうとしているというよりは、仕方なく大人の世界に足を突っ込んでいるようにみえた。
 玄関のガラス戸には、吹奏楽部のクリスマスコンサートのポスターが貼られていた。12月まで、部活の大会や定期テストや模擬試験であわただしく過ぎた時間。いつの間にかクリスマスが間近にあった。そして1年の終わりも。
「栢山、クリスマス、ひま?」
 私は唐突にそう訊いた。
「……ひまだけど」
「ほんとに? 家族でなんかあったりしないの?」
「別に」
「まったく、なにも?」
「クリスマスに何か特別なことしたことないし」
「へー……そうなんだ」
小さいときも? 私はそう言おうとして口をつぐんだ。
クリスマスケーキを食べたことは? ツリーを飾ったことは? サンタクロースをベッドの中で待ったことは? そんな問いが唐突に崩れ落ちていった。明確な意味のないことをきらう彼のことだ。そんなことを問えば、クリスチャンでもないやつらが何でクリスマスに特別なことをするんだと鼻を鳴らすだろう。
「とにかくクリスマスはひまなのね。じゃあちょっと私につきあってくれない?」
 確かにクリスマスはキリスト教徒ではない私たちにはただのお祭り騒ぎをする口実でしかないだろう。だがその口実に乗じて多くの子どもたちはクリスマスを楽しく送ってきたはずだ。栢山にもその特別な日があっていけないはずがない。
「私が栢山の今までの人生の中で一番楽しいクリスマスにしてあげるから」
 栢山は大げさに変な顔をした。
「……なんだ、それ」
「いいからいいから。だからクリスマスはあけといて。ね?」
 彼はすぐにはうんと言わなかった。探るように私の目を見てきた。鋭く昏く、私をひきこむ瞳で。
 私は彼の目の中に一瞬底知れない闇を見た。それにとり殺されようとしていたのは、私だったのか、栢山だったのか。何かの冷たい手が私か栢山の心の臓をひっつかむ前に、沈黙は破られた。
「……わかった」
 そう言って彼は笑った。見たことのないくらい自然で澄んだ笑顔だった。そしてひどくもろそうで、刹那だけのものだった。
「うー、さみぃ」
 栢山はそう呟きながら外に出た。私もそのあとに続く。ちぢこまった彼の肩がちょっとかわいい。
 外は雪が舞いおりていた。遠くまで透き通った完璧な漆黒の夜空。白い雪がとてもきれいだ。
 玄関前のひらけた場所には、誰もいなかった。うっすらつもったばかりの雪を、ひとつひとつそっと踏みしめる。
「スケジュールは私にまかせておいてね。絶対絶対すてきなものに……」
 私はとなりにいるはずの栢山をふりかえって凍りついた。


 気がつくと、私はたったひとりで、玄関前の広い空間に立っていた。
 漆黒の空からは、あとからあとから、雪が舞い降りていた。
 雪が音もなく降りつもる。強いオレンジの照明にてらし出された、白く無音の世界。
 青ざめた私はひとり、そこに立ち尽くしていた。


 つもったばかりの雪に、足跡はやはりひとり分しかなかった。私のものしか。
 私は見慣れたはずの玄関前を見まわした。もうなじむことのできなくなった場所にとけて沈み込んだ、失われたものを探すように。
 吐き出す息がふるえた。体が芯から冷えていく。いや、私に芯なんてもうあるはずもなく、そこにはぽっかりと大きな空洞ができていた。その穴を、容赦なく風が吹き抜ける。
 私は干からびていくのどを押さえた。ひりひりと、冷気に侵食されていく。
 頭から消え去ることのない、昏い瞳。いつも見てきた幾千もの瞳が脳裏を埋め尽くして、私を見つめ続ける。
 栢山は雪がよく似合った。クリスマスに逢う約束をしたあの日――、
 私たちは冬の道を、途中まで一緒に帰った。彼のワックスでかためた髪に、黒いコートに、グレーのマフラーに、輪郭のはっきりした雪の粒が降りかかるのを見るのが好きだった。さむくてちぢこまった、ほんとは広いことを知っている彼の背中を追うことが幸せだった。
 このすき間をうめてくれる人は永遠にいなくなってしまった。知らず知らずのうちに、心の穴をうめていてくれた人は――。
 “一番楽しいクリスマスにしてあげるから”
 私の愚かな一言に、彼はちょっとは期待してくれたのだろうか。
 クリスマスに特別なことをしたことがなかった彼にとって、初めての“特別な日”を……。
「なんだ、速水。まだ帰ってなかったのか」
 ふいに玄関の方から声がして私はのろのろとふりかえった。煌々とした明りの下に、ベージュのコートを着た矢部先生がいた。
 矢部先生は年のわりに若々しく、まだ髪はつやつやと黒かった。柔和な顔をしていて、話せばユニークで、女子生徒に人気があった。
「先生も、今お帰りですか?」
 私は力ない笑みを口元にはりつけてそう訊いた。
「うん。この時期はまとめるものが多くて疲れるよ」
 そう言って矢部先生はぽきん、と首をならした。
 私と先生は何となく一緒に帰り道を歩き出した。民家や何かの事務所から弱くもれる明かりと、街灯だけが照らす夜道。
「……先生は、今日は車じゃないんですか?」
 私は先生の銀色のワゴンを思い出す。いつだったか、何かの大会に行くときに乗せてもらったっけ。
 クリスマスが近くなるとまるで恒例の儀式のようにあわただしく舞い戻る記憶たちを、私は今日も玄関前に置きざりにしてきてしまった。私はそれにホッとしているのか。行き場所のない記憶たちは、行き場所のない想いとあるしかないのに。
「今日は先生方と飲み会なんだ。車は学校において行くよ」
 なるほど、と私は笑った。にぎやかな買物公園は学校から歩いて10分もかからない。飲み屋さんなら、てきとうに歩くだけでいくつも見つかる。
「今年は例年より寒いなあ。冷え込むって感じだよなあ」
 矢部先生はひとり言のようにそう呟いた。言葉とは裏腹に、しっかり着こんだ先生はとてもあたたかそうに見える。春も夏も秋も、私の体感温度は下がったまま。簡単にはふさがらない穴があいてしまったから。
 黙りこくってしまった私を気遣うような先生の気配。先生には申し訳ないけれど、居心地が悪かった。
「明日は……」
 先生のわずかな逡巡。私の体は自然とこわばった。
「明日は、栢山の命日だったな」
 私のこころはその言葉に敏感に反応して空洞を広げる。寒さというよりも、その痛みに引き裂かれそうになる。
「は、い」
 1年。栢山が死んでしまってから、時間の上では1年がたとうとしている。それが私にはひどく苦痛だった。1年がたってしまえば、もうどうしようもなく揺るがしようのない事実にしてしまう気がして。
 栢山が死んだのはクリスマス直前。そして2学期の終わる直前だった。あのとき、部活の雰囲気がいっきに悪くなった。笑い声の絶えなかった部室から、笑い声が消えた。しだいにそんなことはなくなったけれど、欠けて滅んだものは、ニセモノで補うことはできてもよみがえりはしないことを私たちは身をもって知った。
 クリスマスに逢おうって、約束した。
 たくさんの記憶だけをおいて、逝ってしまった。
 誰かと別れた痛みをしだいにいやせていけるのは、その人がどこかで息をしていることを知っているからだと思う。だから思い出だけ残されたことも許せる。
 二度とまぶたを上げない栢山の最後の顔を見たときが一番、やりきれなかった。なぜたった17歳で、じゅうぶん生きたと言いたそうな、満足げな顔をしているのだろう。
「部員たちとは、お墓参りの約束でもしているのかい?」
 かぎりなくやさしい先生の言葉を拒否するように、私は首を横に振ってはっきり答える。
「いいえ」
 だって部員の誰よりも栢山の死を受け止められていないのは私だ。そんな人間が彼らの先頭に立ってお墓まで行けるはずがない。
「そうか」
 どうして行かないんだ、とはもちろん先生は言わない。矢部先生は行くのだろうか? 出逢ってきた数千人の生徒の中の、ひとりのお参りに。
 ぽつぽつと言葉を交わしているうちに、いつの間にか私と先生は買物公園に出ていた。女の人が子供のような声で歌うジングル・ベルが、他の宣伝の放送を押しのけて大音量で響いている。私は激しいいらだちを覚えた。クリスマスが幸せで楽しいものといったいだれが決めたのだろう。去年までは私も思い込んでいた。
 ジングル・ベルが流れ出すスピーカーから少し離れると、先生は言った。
「そういえば去年のちょうど今ごろだったかな。職員室にいた栢山に、軽い気持ちで、クリスマスはどう過ごすんだい、と聞いたことがある」
 私は意外な話に目を見開いた。
「栢山は別に、といつもの調子で答えた。だけど口がうれしそうにゆるんでた。明らかに何か楽しみなことがあるんだな、と思ったよ」
 私は口をかたく引き結んだまま平静をよそおった。とても動揺していた。1年前の栢山があふれだす。クリスマスに逢おうと約束したときの笑顔が。
「生きていたら、去年のクリスマスはどんなふうに過ごしてたんだろうなあ。今年のクリスマスは、どんなふうに過ごしてたんだろうなあ……」
「…………」
 先生はもちろん去年の私と栢山の約束は知らないはずだった。
 無意味だとわかっている。かなわなかったことを、かなっていたらと考えることなど、無益だとむなしいことだとわかっている。それでも思わずにはいられない。私たちのあのクリスマスを失わなかったなら、栢山の何かを変えることができていたのだろうかと。
 先生は唐突に言った。
「速水は、栢山がとても大事な存在だったんだね」
 私は「はい」とも「いいえ」とも返せなかった。
 大事な存在?
 そんなものじゃない。
 栢山は私が守りたいもののすべてだった。
 栢山の心、昏くて深い目、小さくなる背中、冷たい愛想笑い、一度だけ見せてくれた自然な笑顔、ぜんぶぜんぶ、ずっとずっと守っていたかった。守り続けられるのだと根拠もなく信じていた。
『速水さ、よく疲れないね』
 あきらめたような彼の瞳を思い出す。
『よくそんなに大事な……』
 今となっては後悔ばかりがつのる。言いかけた言葉の続きを、無理にでも聞き出せばよかった。そうしたら少しは彼のことをわかってあげられたかもしれない。もっとはやく、彼の昏い瞳の意味を考えてあげればよかった。
 彼の親しい友だち気取りでいた私は、何の覚悟もできていなかった。だから私も栢山も、本当に言いたかったことがなんだったのかもわからないまま、言えないまま、永遠に言葉をかわせなくなった。
 あのとき、カギはすぐに見つかったのに。
「じゃあ、速水。気をつけて帰るんだぞ」
 矢部先生は「ふく源」という落ち着いたたたずまいの居酒屋の前で止まって、そう言った。
「はい。さよなら」
 私は軽く頭を下げる。矢部先生が思い出したように言った。
「いいクリスマスを」
 今は聞きたくない言葉も、なぜかあたたかく、私は自然に笑みがこぼれた。
 店内へ入っていく先生の背中を見送って、私は不意に理解した。私にはたくさん大切なものがあって、私を幸せにしてくれるものがあって、それを常に理解していた。失うことが怖いくらい意識していた。彼には執着するものがなにもなかった。そう、ほんとうに、なにも。それが私にはひどく怖くて不安なことに思えた。なんのために生きているのか、わからなくなってしまうような気がする。
 彼もそんな不安を抱えていたのだろうか?
「…………」
 私はしばらく考えて、それからそれらを頭から押しやって、漆黒の空をふりあおいだ。ときどき、降ってくる雪のかけらのはざまに“こたえ”がちらつく。いまさら……そんな苦いおもいが胸に広がる。
 もう何もかもが遅いのだ。“こたえ”にたどりつけたような気がしても、本人に確かめようがない以上、それは憶測であり、あるいは錯覚でしかない。自己満足でしかないのだ。
 あごをツンともちあげ、懸命に自分の道を見いだそうと通りをにらみつけて歩く人々とすれ違いながら、私は何度もくりかえしてきた問いを反芻する。
 わかっているのだ。いつまでも立ち止まり続けてはいけない。かなしくても栢山の時間は置いていかれるものであり、私や矢部先生の時間はこれから先まだまだ進み続けるものなのだ。
 わかっているのだ。立ち止まることが許されるときは過ぎようとしていることを。このクリスマスが終わったら……かなしくても、栢山のいる世界と私がいる世界とは、完全に隔てられてしまうだろう。つなぎとめようとしても無駄だ。ときの流れとはそういうものだから。
 今年のクリスマスも、1年前のあの日のように、私はひとりで過ごすだろう。だけど1年前のクリスマスとは違う。私はまだ彼がこの世で息をしているかのごとく、彼の幸せを願うだろう。これで終わりにするのだ。


 私は駅の目の前の横断歩道で立ち止まった。青になるまでの時間をしめす赤いランプを見、向こう側の歩道でこちらを向いてやはり青信号を待つ人たちを見て、私は一瞬心臓がはねた。
向こう側の人ごみの中に、栢山が紛れていくのが見えた気がした。黒いコート。ちぢこまった背中。長い足の、早歩き。
 私の足は一瞬ぐらついた。目の前を走り抜ける車など見えなくて、追いかけようと足が勝手に走りだしそうになった。だけど次の瞬間、私は必死にその場に踏みとどまっていた。
 私は荒くなった息を整えた。もう涙は出てこない。走り出そうとする気持ちを抑えなければ、歩くことさえままならない。
 横断歩道の信号が青になった。待ちかまえていた人々は、すぐさま足を踏み出す。私はそれに少し遅れて、歩き出した。道路を渡りながら、もう一度青い信号を見る。
 栢山の幻が見えた人ごみに視線を投げそうになったが、まっすぐに駅の大時計を見つめた。汽車はあと十数分で出発する。私はそれに乗り込む。
 たぶん毅然と顔をあげて座席に座るだろう。乗り込むときに、汽車が発車するときに、何を思ったとしても。



by 伽沙



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