西暦二〇七二年  そう、今からそう遠くない未来。
 世界では、もう底を尽きようとしている燃料や木材などの資源をめぐって、大きな戦争が各地で起こっていた。
 世界のほとんどが、領土に資源を持つ国と、持たない国とに分かれ戦っていた。中立を誓った国までもが、強国に武力をもって脅され、否応なしに世界の欲と憎しみと理不尽の渦に巻き込まれていった。
 争いの絶えぬ世の中で、敵国に勝るためどの国でも科学技術が進歩したが、中でも活躍したのが、クローン人間だった。
 長いこと動物などで研究されていたクローン技術は、ずいぶん前に人間のクローン体を生み出すことに成功して久しかった。
 クローン工場と費用、そして人間の遺伝子さえあれば、いくらでもクローン人間をつくり出すことができた。そして『量産』された彼らは、人間たちの起こした戦争に兵士として利用された。いや、実際、戦争の駒とするために、クローン人間を『量産』しているのである。
 クローン人間はいつしか"クラン"と呼ばれるようになった。
 アメリカ、日本、ヨーロッパなどの先進諸国は、自国の資源を守るため、他国の資源を我が物にするため、クラン同士を戦わせた。だがクランはいくらでもつくり出せるゆえに、その争いはきりがなく続いた。だから各国の科学者たちは、より能力の高いクランをつくるために研究に研究を重ねた。他国と競い合うかのように。
 そうして毎年毎年、少しずつ能力の高いクランが生み出され、世界の戦争は激化していった。
 国の科学を発達させる科学者たちは首都・東京で安全な生活を約束されていたが  他の道府県のほとんどでは、民家は他国の襲撃によって焼き尽くされ、数多くの街や三大都市の一つである大阪までもが、廃墟と化していた。

        ◇   ◇   ◇

 今日、十七歳の誕生日を迎えた夏月(なつき)は、大きな桜の木の下で、たった一人で自分の誕生日を祝っていた。
 桜の幹のすぐ側に腰を下ろし、目の前には道に転がっていた木箱を置いて机にし、その上に夏月の握り拳ほどしかない玄米のおにぎりを乗せて。
「お姉ちゃん、あっという間に私、お姉ちゃんと同じ歳になっちゃった。お姉ちゃんが死んだときは、私もあと何日生きられるんだろう・・・って思ってたけれど・・・」
 夏月は、絢爛に、禍々しいまでに美しく咲き誇った桜を見上げ、一年ほど前に亡くなった姉に話しかけるように呟いた。
 桜は、姉が大好きだった花だ。
 数年前、日本もとうとう爆撃された。この国の心臓である東京の一部を除きほとんどが壊滅状態になり、草木の緑が見れるのはごく稀なこととなった。まして、鮮やかな色の花を見れることなど皆無に等しかったから、時たま、空爆を受けなかった土地に咲いている桜を見つけると、姉はいつも感激していた。
「お姉ちゃんが好きだった桜の木、こんなところに咲いてるよ。こんなにおっきいの、初めて見るね。お姉ちゃんも・・・見てるかなぁ・・・。立派な木だね」
 夏月は、しばらくの間、まるごと薄桃色の光を放っている桜の木を見つめた。
 淡い明るい色の桜の木の上に、真っ青な空が鮮やかに広がって美しい。
 自分がいる場所が、廃墟と化した街だとは思えないくらい、のどかな心地よい朝だった。
 夏月は、木箱の上の小さなおにぎりを見下ろした。
 ここ半年ほどの間で、この玄米おにぎりは最も高価な食事だった。
 食糧自給率が三十パーセント以下に低下していたに日本は、戦争が始まり、食料の入手を日本が依存していた国が敵に回ると同時に、食糧不足の危機にあえぐこととなった。
 食品の値段が急激に高騰し、食べ物を手に入れるのが困難になった。唯一食糧不足の影響を免れたのは、農作物を育てる能力のある人々――主に農家だったが、それほど月日を待たずに、彼らは野菜を育てる土地を空襲によって失った。敵国は、日本全体を効果的に疲弊させる方法として、日本の市場への出荷を多く担っていた米・野菜の生産量の多い地域を真っ先に空襲の標的にしたのだ。
 結局人々は政府の配給に頼ることになったが、餓死する者は増える一方だった。体力のない高齢者、幼児は次々と命を落とした。
 夏月の両親も、そして唯一の肉親だった姉も亡くなった。夏月は知り合った避難民たちと共に、他国の襲撃から逃れながら日本のどことも知れぬ場所をさまよっていた。
 今日、この自分の十七回目の誕生日を夏月が迎えられたことは、幸運と言えた。戦争が始まって早六年。友達のほとんどが亡くなったか、消息不明。実際今一緒に旅している人々とは、最近知り合った見ず知らずの人ばかりだった。
「来年も誕生日を迎えられますように」
 パン!と掌を打って、おにぎりに願いを込める。私の命をつないでくれるこのおにぎりに、暖かい陽射しに、仲間たちに、感謝。
 夏月はパクッと一口でおにぎりを食べた。かめばかむほどに甘みの広がる玄米は、何よりのご馳走だった。いまや、白米や肉の味は忘れてしまった。
 おにぎりを咀嚼し終えると、夏月は手をしっかり合わせて「ごちそうさま」と口にした。今日も食べ物を得ることのできた幸せをかみ締める。
 夏月は元気よく立ち上がると、仲間たちのいるところに戻ろうと、桜の木に背を向けた。
 仲間たちは、ここから数百メートル離れた、公共施設か何かの焼け跡の側でかたまって野宿している。銃声や爆撃の音を聞いては寝床を変え、様々な土地を転々としてきたのだ。
 さわやかな風と、桜の下でバースデーを迎えられたことにすっかり気分をよくした夏月は、軽い足取りで歩き出した。
――その時だった。
 ふと背後で何かの気配を感じて、夏月は立ち止まった。
 汚れた空気を清めるような優しい風が吹いて、薄桃色の花びらがひとひら、夏月の前を通り過ぎた。その花びらに導かれたように、夏月は背後を振り返った。かすかに桜が薫った気がした。匂いのほとんどないはずの桜が。
 そしてそこに、夏月は信じられない人物を見た。
 漆黒のつややかな長い黒髪と、同じ色の美しい瞳。きりっと弧を描く眉。すらりとした肢体。
 一年前、永遠に失われたはずの人が、桜の木の下に一人、佇んでいた。
「おねえ・・・ちゃん・・・?」
 夏月は、地面に足が縫いつけられてしまったかのように、その場を動けなかった。ただ穴が開くほどに、桜の下の美少女を見つめた。
 最後に夏月が目に焼き付けた姿そのままの姉が――衣服は違ったが――立っている・・・・・・。
 姉は、某国の兵士が放ったたった一発の銃弾によって、倒れた。
 銃弾が貫いたのは、姉の胸だった。姉はそのまま動かなかった。
 姉の生死を確認するまもなく、兵士に追い立てられるようにその場を逃げた夏月は、実際姉がどうなったかあずかり知らぬところとなった。
 姉は  あの時息絶えたのではなかったのだろうか。
 致命傷かと見えたあの胸の傷は癒え、どこかで生き延びていたのだろうか。
「お姉ちゃんだよね――? ――春月(はるき)お姉ちゃん――!」
 すくむ足を叱咤して、夏月は一歩ずつ足を動かした。
 だが、姉と同じ姿をした少女は、夏月を見ても眉を寄せるのみだった。
「私を知っているのか?」
 ドンッと。
 お姉ちゃんが胸を撃たれたときは、こんな感覚だったのだろうかと思いながら、夏月は少女の言葉の衝撃に耐えていた。
「お、お姉ちゃんじゃないの?」
 一年前死んだのだと思っていなかったら、姉だと信じて疑わなかっただろうと思えるほど、容姿の何もかもが姉の春月とそっくりな少女は、首をかしげて、訝しげな表情をするだけだった。
 緊迫した顔で少女の前に立った夏月は、恐る恐る手を伸ばした。
 私のことが誰か分からない――姉とうり二つの少女。
 この人が姉でないのなら、いったい誰なのだろう。
 ここまで、顔の造作や声の何もかもが同じ人なんて、別にいるのだろうか。
 姉なのだと、信じたかった。生きていて欲しかった。
――だからこそ、怖かった。
 触れれば消えてしまうのではないか、この少女は姉の大好きな桜の見せた幻なのではないか  
「お姉ちゃんよ――ねぇ、そうでしょう・・・・・・?」
 声がどうしようもなく震えたが、夏月は少女の肩に触れた。少女は消えない。思い切って引き寄せて抱きしめた。
 少女の体は温かく、夏月は心から安堵した。抱きしめるとちょうど自分のあごにその肩が触れる――一歳違いの姉と同じ身長だった。
「やっぱりお姉ちゃんね――!? 生きてたのね? ――よかった!」
 一年ぶりの姉のぬくもりを嬉しく感じながら、夏月はさらに強く少女を抱きしめた。
 だが、腕の中の少女の体から、わずかに抵抗を感じた。それと共に、少女が耳元でささやく。
「違う――私はお前を知らない」
 つきんと、夏月の胸が痛んだ。
 確かに、この口調は姉のものではない。
 でも――もし姉が、傷の影響で記憶を失っただけだとしたら――? 妹への接し方を忘れてしまっても仕方がない。
 本人に否定されても、かたくなに姉だと信じようとする夏月に、少女は重ねて何かを言おうとした  その時。

―――――ドォーン!

 すぐ近くで、激しい爆撃の音がした。その大地を揺るがすような振動が伝わってきて、夏月は身を震わせた。
 戦火の恐怖が襲ってくる。
「逃げないと――!」
 夏月はとっさに少女の手を引いた。
 逃げようと夏月が駆け出したちょうどその時、バラバラと不揃いな足音がして、明細の軍服を着た兵士たちが姿を現した。
 銃を持った兵士に見つかったらおしまいだ。訓練をつんだ兵の弾を避けられるわけも、弾より早く動けるわけもないからだ。あとは、逃げ切れるかどうかの運にかかっているといっても過言ではない。
 そして、夏月たちの立っている場所は、桜の木を頂上に乗せた小高い丘だ。兵士が現れたときから、二人の姿は丸見えだった。
 間に合わない――と、丘などの無防備な場所にいたことを悔やんだ、その時。
 恐怖に凍りついた夏月の腕を、少女が突然引っ張った。
「お姉ちゃん!?」
 驚いて夏月が声を上げると、今度は少女が全力で走り出した。それに引かれて、数十メートル先の崩れた家屋の影に何とかたどり着くと、そこに夏月を押し込み、少女はまた兵士たちの元に戻ろうとする。
「危ないわ! お姉ちゃん!」
 少女は一瞬振り返った。
「ここを動くな」
 そう言い残して、少女は夏月たちを追ってやってきた兵士たちのいる方へ迷わず駆け戻っていった。
 それから、夏月が見たものは―――――
 十七歳の華奢な少女が、八人の兵士を鮮やかに――――皆殺しにする姿だった。
 少女は、恐るべき運動能力をもって、美しい円を描いて宙返りをし、あっという間に兵士たちの後ろにまわった。そこにできた兵士たちの隙を見逃さず、少女は一人の兵士の目を砂でつぶすと、その兵士の手に握られていた銃を奪い取り、不意を突かれた他の兵士たちを一発でしとめていく。
 そして――ものの一分とたたぬうちに、見晴らしのよいその場所には、八つの死体が出来上がっていた。
 わずかに肩を上下させて戻ってきた少女は、夏月を見下ろして落ち着いた口調でこう言った。
「無事だな?」
 少女の人間離れした能力に、夏月は驚きが隠せず口ごもる。
「う、うん――」
 夏月の返事に、ずっと硬い表情だった少女が、安心したように、それと分からないほどかすかに微笑んでため息をついた。
「よかった・・・」
 思いがけない少女の言葉に、夏月は胸がぎゅうっと締め付けられるのを感じた。
 こんな尋常でない動きができる女の子が、姉であるわけがない。
 それでも――たった一言そう言ってくれた、姉と同じ姿のこの少女を、夏月は愛おしく感じた。
 無性に、夏月は泣きたくなった。嬉しいような悲しいような気持ちが、胸の中を満たしては溢れた。
「ハルキって・・・呼んでもいい?」
 少女はかすかに目を瞬かせたが、ぎこちなく口を開いた。
「お前の姉の名か・・・・・・」
 こくんと、夏月はうなずいた。落ち着いたぬくもりのある言葉に、涙がこぼれた。
「泣くな。なぜ泣く?」
 目の前で驚いたように目を見開く少女――ハルキの胸にすがりついて、夏月は泣いた。
 姉はいないのだと、その時強く実感してしまった。
 同じ声で、同じ顔で、全く違う言動をして見せるハルキが愛しくも、悲しくもあった。

        ◇   ◇   ◇

「ハルキは・・・どうしてあんなに強いの?」
 仲間と野宿している場所に、ハルキを連れて戻った夏月は、そう尋ねた。
「強い?」
「そうよ。普通の人間には、あんなことできないわ」
 ハルキに、どこから来たのかと夏月が聞いたら、彼女は「分からない」と答えた。
 本当の名前も、自分のことが何も分からないのだそうだ。気が付いたらあの桜の下に立っていたと言った。
 ハルキはかわった服を着ていた。
 下は、ぴったりとしたシンプルなジーパンだったが、上はグレーの長袖のシャツの上に、細かい鎖が緻密につながってできたベストのようなものを着ている。ファッションだとしたらなかなかクールだが、何かの防護服のようにも思えた。
 ハルキは、姉とは全く違う空気をまとっていた。
 姉の春月は、どんなつらい状況にあってもいつも温かく微笑んでいる人だった。配給の食べ物が足りない時など、「私の方がいっぱい生きたから」と言って幼い子に優先して食べ物を与え、謙虚に振る舞っていた。あの、一見余裕があるような優しさは、彼女が幼いころから、いつか大きな戦争が起こることを意識していたからだろうと、両親は言っていた。
 だが、このハルキは――どこか冷たく張りつめた空気をまとっていた。何事にもあまり興味を示さないし、いつも何の感情も抱いていないような顔をしていて、人と話す時以外は伏し目がちだった。その実常に周りに気を配っているらしく、誰も聞き取れないような小さな音にも反応した。先ほどのような兵士の襲撃を気にしているらしかった。
 遠慮がちにハルキを観察していた夏月は、悲しいながらも、彼女が姉とは別人であることを認めざるを得なかった。
 では、ここまで姉とそっくりなハルキはいったい誰なのか――夏月は、見当がつかなかったわけではなかったが、深く考えたり、ハルキに問いただしてみたりすることはなかった(問うても、「分からない」と答えるのだろうし)。ハルキが誰であっても、夏月は彼女と、姉のように親しく話せる友達になりたかった。
「夏月ちゃん」
 ふと遠くから名前を呼ばれた夏月は、声の主を探して立ち上がった。
 すると、少し離れた、壊れかけの屋根の下に、十人ほど女の人が集まっているのを見つけた。まだ会話したことのない人も多くいたが、皆共に避難している仲間だ。夏月の名を呼んだのは、その中でも特に親しくなった、由妃さんという、二十代後半のスタイルのいい女の人だった。
「夏月ちゃん、ちょっとおいで」
 由妃さんも含めて、集まっていた人たちの顔は皆暗かった。泣いている人もいた。
「はい」
 夏月が立ち上がってそちらへ行こうとすると、ハルキもついて来た。ハルキは、特に夏月の身の周りにいつも注意を払っていた。
「・・・どうしたんで・・・す・・・」
 人だかりにたどり着いた夏月は、問いかけを最後まで口にすることができなかった。
 人だかりの輪の中には、赤ん坊が一人、横たわっていた。それもまだ生まれて数週間とたっていないような、小さな小さな赤ん坊だ。
 この子は、つい最近、避難民の女性中野さんが出産した子だった。
 避難民たちは、その日の食料を得るのが精一杯だ。それも、芋や豆などの野菜がほんのわずか。ある程度成長した者なら、何とかそれでも日々生活していけるが、生まれたばかりの子供は――――――・・・・・・
 まして、少量の食べ物しか口にしていない母親は、栄養不足だ。赤子は、胎児である時から十分な栄養を与えられていない。戦争中生まれた子のほとんどは未熟児だ。そして、栄養不足のせいで、この赤子の母親は母乳が出なかった。
 今、避難民たちの前でかたくまぶたを閉じている赤ん坊は――たった今命を落としたばかりだった。
「そんな・・・・・・」
 夏月は、崩れ落ちるように、その場に座り込んだ。
 まだ、ほんの何十日かしか生きていない命が。
 消えてしまった。
 涙が溢れて止まらなかった。
 中野さんに視線をやると、彼女は別の女性に抱きしめられ、声を殺して泣いていた。
 きっと彼女の悲しみは、本人以外誰も  同じ悲しみを経験した者でなければ、理解することができなかっただろう。
――――それでも。
 それでも、十分過ぎるほどの悲しみが、夏月を、他の仲間たちを、包み込んだ。
 あまりにも早すぎた別れが、つらかった。
 なぜ  まだこの世で何が起きているかも分からぬようなこの子が――死ななければならなかったのだろう。
 夏月は歯を噛み締めた。何か黒くどろどろとしたものが、胸の中に這い上がってくるのを感じていた。
 新しい命が生まれた時、行方不明だった友達と再会できた時――仲間と支えあって、つらい時も強く生きていこうと思えることもある。けれど誰かの死を目にするたび、戦争を起こした人間を恨まずにはいられなくなる。・・・もう、一体誰が、何が戦争を起こしたのかも分からなかったけれど。
「いつになったら、終わるのかな」
 思わずもらした夏月の一言に、暗い顔でうつむいていた仲間たちは、ゆっくりと面を上げた。
「誰が悪いの? 何がいけなかったの? どうして戦争をするの? ・・・それすらはっきりしていないのに・・・私たちは知らされていないのに、傷付いて、死んでいくのはいつも無関係な人たちばかりだわ」
 夏月の声は涙につまる。何を責めているのか、自分でも分からない。ただ、戦争が始まる前にあった、平和で幸せな生活を、かけがえのない家族を、奪った何かが憎くて仕方ない。
 涙で顔を濡らして、言葉にならない思いと葛藤する夏月に、由妃が声をかけた。
「夏月ちゃん、私たちは決して無関係ではないわ」
 なだめるような由妃の言葉に、夏月は涙を拭いて彼女を見つめる。
「人は生まれながらにして罪を背負っている・・・と言ったのはキリストだったかしら。――人間は罪深い生き物だわ。私たちは常に、他者の幸福を奪って生きている。それが故意でなくてもね。私たちの幸福は、いつも誰かの悲しみやつらさの上に成り立っていたもの。だけどあまりに平和すぎて、この国の人々はみんな、大切なことを見失っていたのよ。
 豊かさを求めることが罪なのかもしれない・・・いいえ、違うわね。私たちは  豊かさの意味をはき違えていたんだわ。豊かとは何なのか、きっと分かっていなかったのよ。――戦争が終わらないということは、今も、その意味を理解している人は少ないということかしら。私も、多分まだよく分かっていないんだと思うわ。――きっと、私たちは、お金があるとか、なんでも手に入れることのできる力っていう間違った豊かさを追い求め続けたせいで、こうなってしまったのよ。
 私たち日本人は――もちろん私は経験していないけれど――一九〇〇年代の世界大戦で、争いの悲しさや虚しさを知ったはずだわ。それなのに、百年と少したって、私たちはすっかり忘れてしまった。平和であることがどれほど尊いことか。ただ毎日を何事もなく平穏に暮らせて、飢えることなく一日三食おいしいものを食べられて――それが世界に目を向ければ、どれほど得がたいことかを、忘れてしまった。だから私たちは、先の大戦と同じ痛みを再び味わっている――。血を流しても流しても、もう十分なほど思い知っても  忘れてしまうのよ。
 夏月ちゃん、私ね、人間って、地球上の生き物って、何度も誕生しては滅んでいったんじゃないかって思うの。人間って、今も言ったけど、どんなに痛い目にあっても同じことを繰り返さずにはいられない生き物じゃない? 悲しいことだけれど――この星の資源ももうほとんど底をつきて、新しいエネルギーを開発するために世界で手を合わせて協力し合おうとしない私たちは――きっとそう遠くない未来、滅びる運命にあるのかもしれない。同じ過ちをくり返してきた私たちなら、そういうことってあってもおかしくないと思わない? サルから進化して私たちは人になって、火を使うようになって鉄を生み出し電気を生み出し・・・欲望や憎しみにつき動かされて私たちヒト族は何度も殺しあって――最後には、大切なことを見失って、滅びるの。それを何度も何度も、くり返してきたんじゃないかと、私は思う。・・・まぁ、私は自然科学のことなんて分からないから、科学的にそれはあり得ないのかもしれないけどね」
 由妃の話に、一同はしんと静まり返った。彼女の語ることに、考えさせられることが山ほどあった。
「由妃さんすごい・・・。そんなこと、今まで考えたこともなかった・・・」
 夏月の素直な感嘆のため息に由妃は愛嬌のある笑みを見せる。
「仕方のないことだわ。まだ若いんだもの。・・・きっと夏月ちゃんくらいの子達って、物心ついたころにはもう戦争というものが身近にあったでしょ。何がなんだか分からなくても仕方ないわ。今では報道機関もまともに機能してないし・・・分からないことだらけで・・・ただ逃げることしかできないのよね」
 あきらめたような、どこか悔しそうな由妃の言葉に皆、それぞれの思いを噛み締める。
 夏月は考えてみた。今起きている戦争が、日本で「豊か」に暮らしてきた人々ひとりひとりの責任なのは分かる。でも・・・でも、戦争中に生まれた子供たちは? ただ、運が悪かったのだなんて、そんな一言で済む話ではないはずだ。本当に何の罪もない、ただ生まれただけなのに。
「由妃さんは・・・私たちは決して無関係じゃないと言いました。由妃さんの言うこと、分かります。多くの犠牲の上に贅沢な暮らしをしてきた私たちには  身に覚えがなくても、責任はあるのかもしれません。――けれど・・・この赤ちゃんは――? 罪があったというの?」
 すがるような目で、夏月は由妃を見つめた。
 由妃は、今にも泣き出しそうな夏月の瞳をまっすぐとらえた後、そうね、と、肩の力を抜いて、息を吐き出した。
「この子が命を落とさなきゃいけない理由なんて、ないわね。ただ生きるということに必死だっただけなのに・・・」
 周囲からは再びすすり泣く声が聞こえた。
 大人たちは、新しい小さな命も守ってやれない己が、ただしぶといばかりに生き延びていることへの無力感とかすかな情けなさを噛み締めていた。由妃の話を考えると、この赤ん坊が死んでしまったことが、自分たちのせいにも思えた。
「憎いわね。悔しいわね。そう思って当たり前よ。・・・だけどきっと、誰かがこの憎しみの連鎖を断ち切らなければいけないのよ。じゃなきゃ、くり返すだけだもの」
「・・・・・・」
 夏月は、胸にずしんとのしかかってくる重みに、耐えるように深く息を吐いた。
 この争いを止めるためには、総てを、許せと――――?
 この憎しみを忘れろと―――――?
 それは何を成し遂げるよりも、困難なことに思えた。
 幸福を家族を仲間を、奪った者を憎むのは誰にでもできる。だが、許すことはなんて難しいんだろう。
 争いは、憎しみを生み出すだけ。憎しみはまた、争いを生み出すだけ。
 そうと分かっていても――許すことは、大切な人たちの死を、忘れてしまうようで怖い。
「でも、私もさっきから偉そうなこと言ってるけれど、結局どうしたらいいか分からないのよ。私だって、弟や両親を殺した奴が憎いわ。同じように殺してやりたいと・・・思うわ。それに、仮に私や夏月ちゃんが、許すことができたって、きっと世界は何も変わらないわ。正義が勝つなんて嘘っぱちよね。世界はいつも、お金と権力がある人間の言いなりよ」
 何が正しいのか、どんな世界が理想なのか、それくらいはみんな考えれば分かる。だけど誰も、世界の流れに逆らえない。どうしようもない無力感に支配される―――――。
 夏月は、赤ん坊の色のない横顔を見つめた。まだ、満足にしゃべることも笑うこともできなかった、小さな横顔。
「――でも、この痛みを、伝えていくことはできるんじゃないでしょうか・・・」
 このまま、人類は滅びる運命にあるのだとしても。
 憎しみを抱えたままでは、悲しすぎる。
 世界を傷付けることしかできなかった人間にも、誕生した意味は間違いなくあるはずなのだ。
「先の第二次大戦では、直接被害を浴びなかった人も大勢いると聞いています。でも今回の戦争では、世界中の人が、傷付いています。もし、この争いが終わる日が来るのなら――あなたのお父さんは、お母さんは、おじいちゃんは、おばあちゃんは・・・兄弟は、戦争で亡くなったのだと、こんな悲しいことは、二度とくり返してはいけないのだと、――――私は伝えたいです・・・」
 由妃は、手探りで今夢見ることのできる限りの希望を探そうとする夏月に、静かな感動を覚えた。
 明るい未来に世界をつないでいけるのは、流されることしかできなかった大人ではなく、希望を持つことのできる子供たちなのかもしれない――――
「そうね、伝えてちょうだい。もしこの戦争が終わったときにあなたが生きていたら――――」
「・・・はい」
 夏月は、いろんな思いを胸に、小さくうなずいた。うなずくと、ぽろっと涙がこぼれた。なぜ泣けるのか分からない。息を引き取ったばかりの赤ちゃんの死が悲しいのか、全ての人のもとにいずれ訪れるであろう、滅びという運命が悲しいのか・・・・・・。
 ただ一つ分かることは、争いの中に生まれた私たちは、この深い悲しみをのちの世に伝えていくために、生きるのだということ。生き延びなければならないのだということ・・・・・・。
 夏月は、この赤ん坊の死を、由妃の話を、今日自分が考えたことを、胸に刻み込んだ。忘れないようにと思わなくても、決して忘れることはないだろうと、なぜだか強く思った。



by 伽沙



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