六月中旬、暑さを吹き飛ばしながら自転車で風を切って進むのはとても心地良く、自然と進むスピードも上がる。しかし、せっかくスピードに乗ってきたと思ったら、目の前の信号が赤に変わってしまった。この信号は引っ掛かると長い時間待たされてしまう。こんな暑い中信号を待つなんて苦痛以外の何物でもない。なので私はまがることにした。
 まがって入ったこの通りには大きな街路樹がいくつも並んでいた。木の根元には色とりどりに花が並んでいる。チューリップ、ラベンダー、水仙……。
 花を眺めていたから、目の前に人が座っているのに気付かなかった。
 最悪な展開を想像してしまう。変な想像を振り払いながらブレーキをかける。しかし、それはあまりにも遅すぎた。
駄目だ、間に合わない。
「あぶなぁぁぁいッ!」
叫ぶと目の前の人は向かってくる自転車に気付いたようで慌てて避けた。その刹那、自転車が通過。ぶつかってしまった感触もなく私はホッと胸を撫で下ろした。
 一応私は怪我させていないかどうか確かめるために振り向いた。
「あの、大丈夫です……か」
目の前のありえない光景に語尾が口の中で消えていった。
 何事もなかったかのように、自転車に轢かれそうになった人は、歩道にゆったりと座りながら花を眺めていた。赤いお菓子の袋がモチーフのキャラメルコーンを美味しそうに味わっている。何より、一番驚いたのはその人物がクラスメートの大幡(おおはた)風哉(ふうや)だったことだった。
 風哉はいわゆる気分屋という奴で、風のように掴み所がない。
 風哉の気分屋ぶりはクラスでは公認の物だ。「早く来る気分ではなかった」と言って学校を遅刻する事もしばしば。逆に「早く来たかった」と言ってクラスで一番に学校に来る日もあった。
 何故そんな気分屋の風哉が道端に座ってお菓子を食べながら花を見ているのか。気になり始めたら止まらなくなってきた。
「何やってるの?」
ついに堪えきれずに聞いた。風哉は私の方をちらりと一瞥するとポツリと答えた。
「花見」
 確かにここの通りは春になると桜の花が一斉に咲き乱れる。しかし、今は六月で当然桜の花など咲いてるはずもなく、濃い緑色の葉を多々つけていた。
「花見? 桜、咲いてないよ?」
 すると風哉は何も言わずに電子辞書を取り出して文字を打ち始めた。そして、何かを見つけたらしく私にそのまま電子辞書を手渡した。見ると電子辞書の画面には“花見”が載っていた。
「花見。花、特に桜の花を眺めて、遊び楽しむこと……」
声に出して読んでみる……が何のことか分からない。
「分かっただろ。花見ってのは桜と限定されているわけじゃないんだ。つまり、今俺がこうやってチューリップや水仙を眺めているのも花見ってわけだ」
少し得意げに言いながら、風哉は再びキャラメルコーンを頬張った。
私は風哉と話すのはこれが初めてだった。気分屋でかなり変な奴だけど、何故だかもう少し話したくなってきた。
私は風哉に電子辞書を返して、そのまま横に座った。風哉が驚いたようにこちらを見る。
「何してんの?」
「花見って『遊び楽しむこと』なんでしょ? 一人より二人の方が楽しいと思わない?」
「別に何とも思わないけど」
と言いながら風哉は私の方にキャラメルコーンの袋を投げた。私は袋を落としそうになりながらも何とか取った。持ってみると袋はけっこう軽いが、まだ中身が入っている。
「何なの、これ」
「キャラメルコーン。知らないの?」
「いや知ってるけどさ、そうじゃなくて何でキャラメルコーンを私の方に投げたの?」
「やる。食えば?」
 反応に困ったがせっかくなので貰うことにした。最近は食べてないけれど、キャラメルコーンは私の好物のお菓子。その甘さを思い浮かべながら袋の中身を見た。
 袋の中には……ピーナッツしかなかった。口の中で甘くとろけるキャラメルコーンは一つもなく、ピーナッツだけが袋の中に入っていた。呆気に取られながらも再度袋の中を見る。しかし、どれだけしっかり見ようとも袋の中にはピーナッツしかなかった。
「あ、あのぉ、ピーナッツしかないような気がするんだけど……」
「あぁ俺はコーンは好きだけど、ピーナッツはあんまり好きじゃないから。もしかして、ピーナッツ嫌い?」
「いやそんな事はないけど……」
笑って誤魔化しながら私はピーナッツを食べた。キャラメルコーンの甘味が口の中に広がる。そしてだんだんとピーナッツの味に変わっていく。なんとも切ない。
「そもそも何でこんな所で花見なんかしてるの? 花が見たいなら公園とか行けばいいじゃん」
「こんな平日に公園までいくのめんどいし、第一俺の家ここだから」
風哉はそう言いながら後ろを指差す。二階建ての綺麗な一軒家。玄関の表札には“大幡”とある。
 私は更に風哉という人物が分からなくなってきた。家のすぐ前で花見をするのってどうなんだろう。そんなに花を見たいなら家の中からでも眺められるのではないのか?
そんな疑問を風哉にぶつけてみた。
「家が近いと何かと楽じゃん。でも、家の中からだとあまり見えないし。それにここの通り人通りも車通りも少ないからけっこう好きなんだよ」
と風哉が言った瞬間、車が一台砂埃をあげて通っていった。ドンマイ、風哉。
私は心の中でぼそりと呟いた。

「ねぇ、何でいつも自分の気分通りに行動するの? 周りとか気になったりしない?」
前から疑問に思っていた事を言って、風哉の方を見た。
 風哉は血走った目をくわっと開いていた。険しい表情で瞬きせずにじっとしている。
 怒らせてしまったのかな……。きっとそうだ。人には色々事情ってものがあるのだし。
「あっあわわわ、やややっぱ何でもないよ。人には色々あるよね、うん。さっきの質問気にしないで!」
言い切った後風哉をもう一度見るが、相変わらず険しい表情だ。どうしよう……。
 風哉が「はぁ」と大きなため息をついて、そのまま立ち上がった。やっぱり、禁断の質問だったのかな? 怒って帰ってしまうのかな? 不安が渦巻く。
 一瞬の沈黙。そして、風哉が口を開いた。
「ふあぁぁぁ〜痛かったぁ〜」
そう気持ち良さそうに言いながら背中をそらし始めた。予想外の反応に私はもう何が何だか分からなくなってきた。
「な、何なの?」
「さっき車が通った時に目に砂が入ってさ。凄い痛くって……でも頑張って涙流したら砂も流れて……そういや何か言ってたよな?」
もう一度聞く? 自分に自問してみるが、答えはもうすでに出ていた。
「いや、何でもない事だから」
再び笑って誤魔化した。風哉は腑に落ちないような表情を浮かべたが、すぐにそれを消して、肩に鞄をかけた。
「んじゃ俺はそろそろ家に帰るわ。来週定期考査だろ? じゃあな」
風哉は私に手を振りつつ、家の中に戻っていった。

 謎の花見から二週間ほど経った。
私は足取り重く家に帰っている。定期考査では中学の時では考えられない最悪な結果だった。親に結果を見せたらどんな顔をするだろうか。それを考えるだけで気が重くなった。
嫌な予感は的中した。
 定期考査の結果が最悪だというのに、更に小言まで言われて最悪な気分だ。これでも、夜遅くまで勉強したのに。全力を出し切ったはずだった。それでもこんな結果。どうしたらいいか分からない。ゴールのない道をただ永遠に走り続けている、そんな気分だ。

 休み時間、私は机に寝そべっていた。何もする気になれず、ただぼぉーとしていた。
「西森」
不意に呼ばれて体がびくっとなった。前を向いたら風哉が立っていた。
「な、何? どうしたの?」
「明日暇か?」
明日は土曜日だ……。予定は何もなかったはず。
「うん、暇。それがどうかした?」
「俺と一緒に散歩しに行かないか?」
面白そう、と率直に思った。でも散歩に行ってる暇なんかあるか? 勉強、この二文字が頭からどうしても離れない。
「何か今のお前、悪循環の象徴って感じだな。まぁ明日午前十時に俺んち来て。昼飯忘れるなよ」
 風哉はそれだけ言うと私の返事も聞かずに自分の席に戻ってしまった。呼び止めようとしたら、授業開始のチャイムが鳴って先生が入ってきてしまった。

 結局、断る事もできずに土曜日となってしまった。風哉の家に行かないという手段もある。でもそれは悪いので、仕方なく今風哉の家に向かっている。
 久しぶりに自転車で風を感じている。色とりどりに咲く花を眺めていると、心が澄んでいくようだった。
 風哉は家の前でのんびり座っていた。視線の方向は空といったところか。今日は快晴。青空がどこまでも広がっているように見える。そして、ちらほらと浮かぶ雲は眩しすぎるほど白く輝いている。
「よぉ」
「おはよう」
風哉は自転車に乗って私を置いて颯爽と進み始めた。置いてかれるのは嫌なので私は慌てて追いかけた。
「ねぇ、散歩じゃないの?」
「俺は自転車のほうが好きだから。何ならサンテンでいいよ」
サンテン……? 意味の分からない言葉だ。
「サンテンって何なの?」
「散歩の自転車版。散歩の散と自転車の転で散転。納得?」
あまりにも意味が分からなさすぎて、私は何も言えなかった。
 気付けば高い建物がなくなって住宅街の終わりの方へ来ていた。このままいけば畑や水田だ。
「ねぇどこまで行くつもりなの?」
「予定では隣町の公園。でもめんどかったらそこらへんで止める」
さすが気分屋の答えだ、と一瞬感心してしまった。しかし、もっと重大な事に気付いた。
「隣町ッ? そこまで行くつもりだったの? 散歩の範囲を超えてるでしょ」
「じゃあドライブって事で」
ド、ドライブ? ドライブは車でするものであって……でもよくよく考えれば自転車だって二輪と考えられなくもない訳であって……
「ねぇ危ないよ?」
「はぁ?」
何が危ないのだろう。そう思って前を見たら、道が九十度カーブしていてその先には水田が遠くまで広がっている。
「うわっああああぎゃああああ!」
変な奇声と共に、慌ててハンドルを切った。車体が大きく傾いてぐらっと水田に落ちそうになるのを必死に堪える。
 何とか、カーブを通過。私はホッと息を吐きながら風哉を軽く睨んで言う。
「も、もう少し緊迫感のある言い方ってないの?」
「ない」
予想できた返事とはいえ、私は呆れてしまった。

それから約一時間もたった頃、山の麓にある公園についた。私は自転車から降りて、深く息を吸ってみる。山の近くだけあって空気が涼しい。
「何やってんの? まだゴールじゃないよ」
そう言って風哉は私を置いて一人先に進み始めた。私は慌てふためきながら自転車に乗って風哉を追い駆けた。
 私たちは自転車置き場に自転車を置いて、公園内の遊歩道を進んでいく。辺りを見回しても木しかない。空を見上げると木漏れ日が美しく輝いている。
 遊歩道はどこまでも続いているように見える。さすがに息が上がってきた。体育会系の部活に入ってない私にとって、ここまで自転車で来るのすら苦痛だったというのに、今は登り道。足が諤々と震えている。
「どこまで行くつもりなの?」
「予定では頂上だけど、もしかして疲れた?」
うん、とあたしは素直に頷いたが、風哉は止まる訳もなくひたすらに進んでいく。
「鍛え方がなってないな。この程度で疲れるなんて」
そう言うと、風哉は手を私の方へ向けた。この手の意味が分からずに私は風哉を呆然と見上げた。
「何、この手」
「ここから先更に傾斜高くなるから。掴めよ」
男子と手を繋ぐのは小学生の時、何かのダンスをやって以来だ。差し出された手を掴む事を恥ずかしく感じてしまい、手を思い切って出す事が出来ない。
「早くしろよ」
風哉はそう言うと、私の手を掴んでぐいっと引き上げた。そして、遊歩道を登っていった。

遥か彼方まで続くように見えていた道も、先が見えなくなってきていた。頂上は近いのか。私は今まで通ってきた道を振り返ろうとした。
「まだ後ろ向くなよ」
私の考えを見透かしたかのように風哉は言った。
「今までの努力の証を見たいのはよく分かる。でもつまんないじゃん。やっぱゴールしてから振り返った方が気持ちいいと思う」
 斜面がついに平坦な道になった。しかし、それでも風哉は歩くのをやめていなかった。風哉に手を引かれたまま後をついていく。風哉は木で出来た階段を登っていた。
「ここの階段、軽く腐りかけてるから下見ながら歩いた方がいいぞ」
確かに木は腐敗して危なっかしい。登るたびにギシギシとなる階段を、気を付けて進む。
 下を向きながら階段を登る。そして、風哉は足を止めた。
「ほら、ついたぞ。景色、見てみろよ」
「……分かった」
 そして私は顔を上げた。
目の前に広がったのは限りないほど広く綺麗な自然だった。下の方にはさっきの公園がある。芝生の緑と花の色とりどりな色彩が見える。視線を公園の奥に向けると畑や水田がどこまでも広がっていた。
そして、遠くの方に街並も見える。しかし、そんな物はこの自然に比べたらあまりにも小さかった。
「……凄い」
これ以上の言葉は思いつかなかった。
「街と比べたら自然がどれだけ大きいか分かるだろ? 街はあんなにちっぽけなんだ。そんなちっぽけな街の中のお前の悩みなんか自然と比べたら小さすぎて話にならないだろ?」
風哉の言葉が胸の中に染み渡ってくる。この景色を見ていたら、どうしてあんなに悩んでいたのか分からなくなる。
「すっきりしたか? 時には気分転換ってのも悪くないだろ?」
そう言って風哉はにっこりと笑った。
「……ありがとう」
自然と言葉が出た。一回では全く言い足りないくらい、風哉に感謝してる。
一瞬風哉の頬が赤く染まったような気がした。瞬きしてもう一度見たら、いつものポーカーフェイスに戻っていた。
「別に。一人より二人の方が楽しいんだろ? だから俺はここに来たい気分だったからお前を誘っただけだ。……おい、昼飯食うぞ」
風哉は近くのベンチに腰を下ろして私を待つこともせずに一人で食べ始めた。私は何度も置いてかれるのも癪なので急いで風哉の横に座り、お弁当を食べ始めた。



by 雲居雁



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