人間は所詮顔である。
このことを常々実感させられるのは他でもない、毎日の生活からである。イケメンの友達や先輩、後輩を持つと異性から話しかけられる頻度が確実に低下してしまう。友達が楽しそうに話しているのを傍らで憧れと妬みの混じった目で見つめるだけ。顔では勝負できないのでキャラで勝負しなければならないという悲劇。
 しかし、仕様がないことだとも思う。映画や漫画、小説の主人公はほぼ全員イケメンか可愛い。そうでもしないと売れないからだ。考えてもみて欲しい。目の前に新鮮なレタスと虫食いがあるレタスがあるとする。あなたはどちらを買う? 私は間違えなく新鮮なレタスを買う。つまりはそういうことだ。
 なので、私はこう叫ばせてもらう。
『人は性格だ! でも俺は可愛い子が好きだ!』
 
っと、エンターキー。
「いやいや、キョロ。あきらかに矛盾してるだろ」
 傍らから声。振り向いてみると、澤田が腕組みをしながら俺のパソコンのディスプレイを覗き込んで薄ら笑いを浮かべていた。
「だって本当のことだもん、しゃーないじゃん」
そう言うと、澤田はあきれたような顔をして呟く。
「……ここまで矛盾してる考えを持つ奴も珍しいぞ」
「お前は顔が良いからそんなことが言えるんだろ。ったく、顔レベル凡人の気持ちを考えてもみやがれ」
 どこから見ても僻みの極みであるが、こうでもしないとただでさえ薄っぺらい自分のプライドが崩れ落ちそうで怖かった。 
 義務教育最後の夏休みも終わりに近付いていた。部活も引退し、墓参りも済まし、俺は澤田と一緒に残りの夏休みを無意義に消費していた。
 澤田は俺のベッドに座り、少年漫画を読んでいる。奴は顔が良い。誰が見ても口を揃えて「かっこいい」と言うだろう。
 要するに、俺は澤田に嫉妬しているわけで。澤田は全然俺の嫉妬になんて気づいてないんだけど。多分。  
「しっかし、お前もこんな文章書いてよく嫌にならないよな……」
「あ? 別に良いだろ。暇だから自分の主張を書いてんだよ」
「暇だから自己陶酔してたって?」
「うるさいな」
俺がわざと不機嫌ボイスで答えると、澤田は悪い悪いと笑いながら言って、また漫画を読み始めた。俺は本当はこの文章をどこかに載せて共感でも得ようと思っていたのだが、改めて見てみると、認めたくはないのだが、モテない男の遠吠えにしか見えなかった。何て哀れ。何て醜い。バックスペース、バックスペース。
 澤田と家でだらだらしていたその日、俺はなんとなく思った。
 このままだと俺に明るい未来はない。あるのは逃避、妥協、悲惨、そして二次元との対話。俺はそれでは納得することが出来ない。そして、天は人の上には人を作らないらしい。
「おい澤田」
「何?」
 漫画から顔をあげて、俺の方を見る澤田。相変わらずのかっこいいルックス。近頃はたまに俺も惚れそうになってしまうから困る。そんな澤田に向って俺は言った。
「俺はかっこいい奴らを超える」
 澤田は返事もせずに俺の顔を見つめている。
 窓の外から、公園で野球をする小学生の楽しそうな声が聞こえた。蝉の声、風鈴の音、澤田が漫画のページをめくる音、そして単調な電子音。
 
 *

ピピピピ ピピピピ ピピピピ ピピピピ
甲高い音が俺の耳をついていた。目を閉じながら手を伸ばしても、その発音体には手が届かない。部屋に響き渡るその音は、俺の起床を促しているみたいだ。手に冷たい感触。これだな。目覚まし時計のスイッチを止めると、静かになる俺の部屋。蝉の声と、食堂から聞こえるラジオの音。
暑い。汗で体中がベトベトだ。 昨日の夜からの熱気は、相変わらず俺の体を包んでいた。旭川は故郷・留萌に比べて夏の気温が高い。都会であるが故の熱も手伝って、部屋の温度計は三十度を超えていた。寝転がりながら携帯電話を何気なく開く。八月九日。夏休みも、あと十日。
 高校生になってから旭川の下宿に住んでいる俺は、中学を卒業してからまだ一度も留萌に帰っていない。
 高校の楽しさや忙しさで地元のことなど全然忘れていた。
 むこうの友達からは「キョロ、帰ってこないのかよ」等とたびたびメールは来ていたが、曖昧にごまかしていた。
 今頃、皆は何をしているのか。故郷は、どうなっているのか。
 久し振りに見た夢は、一年前の夏休みをこれでもかというくらい精密に表現していた。独特の匂い、感触、音、色。夢なのに鮮明に記憶しているその風景。
まだ故郷を出て四ヶ月しか経っていない。しかし、帰ってみるのも悪くないと思った。
旭川から留萌はバスで二時間。
 俺は財布と携帯、何枚かの着替えをリュックに詰め込んでバス停へ向かった。
 
 *

「ご乗車ありがとうございます。このバスは深川経由、留萌行きで御座います。整理券を御取り下さい。なお、車内は禁煙となっております……」
 音質の悪いアナウンスに急かされるかのように、俺はバスを降りた。駅前バスターミナルは、いつものように寂れている。中で百円のペットボトルのスポーツ飲料を買い、商店街を歩く。
 寂れゆく町、留萌市。
 商店街にはいささかの活気もなく、たまに通る老人が早足で通り過ぎていくだけ。しかし、何だか懐かしいような、落ち着くような雰囲気。何故だろう。何故かなんてわからない。だが、俺はこの町が好きだ。ゆっくりとした雰囲気漂う街、留萌市が。 
バスターミナルから出て、家の方向へしばらく歩いてみると、後ろから声がした。
「よ、キョロ」
 振り向いてみると、青いTシャツとジーンズを纏った美しい少女が居た……あれ?
 もう一度目を凝らして見てみる。うん、間違えない。彼女は確かにそこに居た。浅黒く日焼けした肌。あまり大きくない瞳。そして女性にしては短い髪。
 「可愛い」という言葉より「かっこいい」という言葉が当てはまりそう。
「どうした? 私の顔に何かついてる?」
 少女は不思議そうな顔で俺の顔を見つめている。
「いや……そういうわけじゃないのですけれども」
「キョロ、異世界人を見るような眼で私を見てる。ったく、不謹慎なんだよなぁ」
 少女は手を後ろに組んで空を見上げる。
「……あの、すみません」
「ん? 何さ、改まっちゃって」
 俺はこいつにどうしても聞いておかなければならないことがある。
「あなた、澤田七世さんですよね?」
「……キョロ、今日は何かおかしい。私が澤田ナナセじゃなかったら一体誰だって言うのさ」
 間違えなかった。その少女は、澤田七世。

 *
 
おかしい。
ありえない。
 立て続けにありえないことが起こっている。俺の頭は崩壊寸前だ。
 というのも、留萌の実家に帰ってから俺は急いで部屋へ向かって卒業アルバムを見ようとした。確認したいことが一つあったのだ。だが、いくら本棚を探しても見当たらない。おかしい。下宿先には持って行ってないはずだ。
 次に驚いたのが、本棚の本が少し減っていたこと。漫画や参考書が三分の一ほど消えている。おかしい。誕生日プレゼントや日々買いだめしている本が二十冊ほど足りない。
 その他にも、テーブルの上に置いてある新聞の日付が一年前だったり、後輩にあげたはずのサッカースパイクが床の上に転がっていたり、新しく買い替えたはずのパソコンがまだ古かったりと色々とおかしいことが起こっている。
予感は恐る恐るテレビをつけた時に確信に変わった。
「今年は駒大苫小牧は優勝できるのでしょうかね」
「いえ、現時点では何とも言えないです。しかし、3連覇というのは少しきついものがあると思いますよ」
 平成十八年度、第八十八回全国高等学校野球選手権大会。
 何故かはわからない。夢をみているのかも知れない。テーブルの上に乗っている新聞は、去年のものに関わらずまだ新しい。
 どうやら俺は、去年の夏に帰ってきてしまったらしい。
 そうだ。
 去年ならまだ納得出来る。澤田がここに居る理由。家の中のこと。
 外からは公園で野球をする小学生の声が聞こえた。
 洗面所へ行き、鏡を見つめる。中学三年生の上妻恭輔、すなわち俺がこちらを見ている。背が少し縮んでおり、髪が短い。顔は日に焼けきれずにほんのり赤く染まっている。
 その次に自分の机の上を見てみる。そこには全く手をつけていない宿題と空白だらけの一行日記があった。パラレルワールドとか、夢の中とかいう類ではもうない。これは完全なる去年の夏休みだ。
 
 それにしても、この夏休みは一体何があったんだっけ?
 
 中三の夏休みの記憶に、もやがかかっている。
 確か、普通に部活して、祖母に会いに行って、友達と適当に遊んで、最後の日に宿題やって。
 いつも通りの夏休みだったような。これといった出来事が思いつかない。改めて部屋を見渡してみる。
 タンスの前にはサッカー用の短パンとTシャツ。中体連で負けた時のことを思い出す。ぼんやりと。
 壁には洗濯のしすぎでテカテカになっている制服がかけてある。その下には夏服が無造作に畳まれてある。
 正面には、パソコンがあった。することもないので、電源を入れてみる。 
 古いパソコン特有のファンの音の中、俺は懐かしいものを目にした。メモ帳に延々と打ちこまれた、僻み。妬み。負け犬の遠吠え。一番下には、『俺は絶対かっこいい奴らを超えてみせる。俺はかっこよくなる!』
 わざわざ二重括弧をつけてまで強調することなのか。だいたい、かっこよくなるなんて不可能だ。現に高校一年生の俺も中学三年生時と変わらない。かっこ悪い顔。女子はおろか、男子からもあまり話しかけられない。話すのは嫌いではない。ただ、見た目にコンプレックスを抱えている。 
「……馬鹿みたいだな、俺は」
 胸の奥からそこはかとなく切なさが込み上げてきた。
 テキストを消す。そして、電源も消そうとする。
 チャイム音が鳴り響いた。
 玄関へと向かうと、半袖半ズボン、今からサッカーでも始めそうな格好の澤田が居た。美男子、いやかっこいい少女。普通の女の子とは一味違うオーラを放っている。
「よ、キョロ。相変わらず顔色悪いなぁ」
「そ、そうかな?」
澤田は俺の顔を覗き込むとニンマリと笑った。
「そんな顔してると、ただでさえかっこ悪い顔がさらにかっこ悪くなるぞ」
一年前の俺はここでどのような応対をしただろうか。怒ったのだろうか。それとも、落ち込んだのだろうか。
「仕様がないだろ、顔は変えようがないんだから」
 俺の発言が意外だったらしく、澤田は目を丸くした。
「キョロ。お前……ついに悟りの境地まで達したのか」
「いやいやいや。だって、顔って本当に変えようがないしな」
 中学三年の俺は、どんなことを言ったのか覚えていない。
 だが、今の俺はあきらめている。だって、顔は変えることが出来ないのだから。
 どんなに努力しても、かっこよくなることは出来ない。
「そんなに暗くなるなよ。そんじゃ、あがらせてもらうぜ」
 澤田は複雑な顔をしながら靴を脱ぐ。
 俺の視線は下から、上へ。手首の、無数の傷跡。
 手首だけではない、細い両腕全体に、まんべんなくつけられた切り傷。
 シャツを着た澤田の体は、随分華奢に見えた。
ふと、過去のことを思い出した。 

 *

澤田七世と会ったのは、中学二年の夏。あるチャットだった。
 偶然出会い、何気なく会話していた。相手は不登校で、しかも同じ町に住んでいる。そのことに興味を引かれた。澤田は何も包み隠さずに自分のことを話した。中学一年生の二学期から学校へ行っていないこと、凄惨ないじめをうけたこと、誕生日、血液型、その他諸々。
 俺が中学の何の変哲もない現状を話すと、澤田はもっと話してくれとせがんだ。もともと性格が合ったのかもしれない。その後何回か俺達はチャット上で会っていた。かなり楽しかった。パソコンの向こうには本当に澤田七世という人物が居るのかわからない。けれど、俺は本当に楽しかった。
 彼女とリアルで会うことになったのはチャットで会ってから一ヶ月後のこと。あちらから会うことを提案してきたのに、俺は少々戸惑った。
 一つの理由はと、不登校である澤田が会うのを提案してきたから。俺から会うことは提案しようと思っていたのだ。だから、出鼻をくじかれた思いだった。
 最後の理由。俺が外見にコンプレックスを抱いていたから。色白で、眼鏡をかけていて、足だけは太くて。身長も高くはない。中肉中背という言葉がぴったりだ。顔ももちろん、イケていない。
 この顔を見られたら澤田がどんな反応をするか。想像に難くない。チャットというのは、顔が見られないから楽しいコミュニケーションが成立するものだ。全てが壊れていく可能性もあるのだ。
 
 だが、実際に会って驚いたのは俺の方だった。
 澤田が男ではなく、女だったことに驚いた。
 確かにボーイッシュで、顔立ちも整っているのだが、確実に女だった。そのことを澤田に言うと、澤田は笑った後こう言った。
「間違えてくれて、嬉しいよ」
それから、澤田は俺の家にたびたび遊びにくるようになったのだ。遊ぶといっても、ただ家にきて窓の外を眺めながら少し会話するだけ。時間を共有していただけなのだが。
澤田の表情は、最初はいつも楽しそうだったが、帰るときは寂しそうだった。しかし、休日になるといつも来ていた。俺の家へ。俺も忙しい時以外は追い払わずに、澤田を受け入れていた。
しかし、澤田は二〇〇七年にはもう存在しない。
 
 *

「キョロー、パソコンの電源つけっ放しだぞー」
 二階から澤田の声が聞こえる。俺は台所でジンジャエールをコップに入れて、持っていく。部屋で澤田はベッドに腰かけて窓の外を眺めていた。雑然とした部屋の中で、凛としている澤田は少し目立って見える。
「ほら、ジンジャエール。置いておくぞ」
「ありがとさん」
 澤田は傷だらけの腕を伸ばしてコップを掴んだ。日光がその傷を明るく照らす。傷のまわりには黒く変色した血が少量ついている。
「何さっきからジロジロ見てんのさ」
 気づくと、澤田は俺の目を見ていた。少し茶色がかった眼球。その瞳は憂いを帯びていた。心なしか、泣きそうにも見える。
「傷、痛々しいなと思って」
「ははは……確かに、ね」
 澤田が苦笑しながら傷をさする。
「自業自得。することないからやってただけ。本当にカッコ悪いよね」
「……まぁ、そうだよな。リスカなんて百害あって一理なしだよな」 
 澤田はそうだよねと無理やり作ったような笑顔で相槌をうちながら、もう一口ジンジャエールを飲んだ。コップの中の氷が互いにぶつかって音をたてている。窓から差し込む光に照らされている澤田の顔は、美しかった。
「ねぇ、キョロ」
 こちらを向く澤田。
「何だ?」
「この夏休み、楽しかった?」
 記憶のもやが晴れていく。
 中学三年の八月九日、頭の中に映像と音声が流れ込んできた。
 フラッシュバック。

*

「充実してた気がする」
「そっか」
 澤田はジンジャエールを一口飲んでから、寂しそうに微笑んだ。
「私はあまり充実してなかったかな。はははは」
 わざとらしく笑う澤田。
「別にこれといって楽しいことも無かったし。いや私、学校行ってないから夏休みも何もないんだけどね」
 風鈴が一度だけ、涼しい音色を響かせた。 
「このまま生きてて、何か意味あるのかなーとか思ったりして。リスカくらいしかすることのない私が」 
 蝉の鳴き声。そして、澤田の笑い声。
「ははははははは。はははは………はは」
「澤田……」
 澤田は無言でジンジャエールを飲み干した。
 恐ろしいほど無表情で、眼は虚空を見つめている。
「何かあったのか?」
「ううん、何にもないよ。何も」
 沈黙。蝉の声と、気まずさだけの空間。 
 澤田は何やらポケットをまさぐっている。
「俺に……出来ることがあるなら、するけど」
 この気まずさには耐えられなかった。
 澤田はテンションの上下がものすごく激しい。 
 いわゆる欝病患者。ついこの間まで札幌の精神病院へ通っていたらしい。
 無表情でこちらを見ていた澤田は、やがてクスッと笑いを漏らした。右手には、カッターナイフを持っている。
「そんじゃ、私を殺してよ」
 邪悪な笑みを湛えてこちらへ向かってくる澤田。体が削り取られるような恐怖。
「私はね、あなたに殺してもらうために知り合ったのよ」
 カッターの刃が音ともに、外に出される。
「こ、殺すっつっても、俺にはそんなことできねぇよ」
「そう! 顔だけじゃなくて心までヘタレなんだ! ははははは!」
 狂ったように笑い出す澤田。背筋が凍りつく。
「じゃあね、提案があるんだけど! お前が私を殺さなかった場合、私がお前を殺すから!」

*

「キョロ、ねぇキョロ。キョロったら」
 澤田の声で我に帰る。
「あ、うん。すまん、ちょっと考え事してた」
「……ったく、一分くらい身動きひとつしてなかったよ」
 そんなにフラッシュバックが続いていたのか。思い出すとかそういうレベルじゃない、まるでもう一つの世界に居たかのような感触。
二〇〇六年の八月九日。
 その時のことを、今や俺ははっきりと思い出せる。
俺が澤田とリアルで会ってから一年が経過した日。
 そして、澤田の命日。澤田七世は上妻恭輔によって、殺された。
 巷では行方不明ということになっている。当然だ。死体は分割して小学校の裏山に埋めてきた。
 世間では全く澤田が居なくなったことを騒がなかった。最初から澤田なんて居なかったかのようだった。
 最初はびくびくして過ごしていた俺も、そのうち何も感じなり、それどころか半年ほどすると澤田のことも、殺人を犯した事実もきれいさっぱり忘れてしまっていたのだ。
 いや、忘れてしまっていたのではない。自己暗示によって、俺は最初から澤田七世なんて人物はいないという記憶を植え付けたのだ。
「……なぁ、キョロ」
「ん」
 澤田は澄ました顔でこっちを向く。
 このままだと澤田は絶対俺に殺しを依頼するだろう。
 彼女は二〇〇五年、俺と知り合った。自分を殺してくれるような相手を探すために。もちろん俺にはそれが可能だ。現に一度成功している。
「頼みがあるんだけど」
「…………」
 俺は、どうするべきなのだろう。 
 こいつを殺すことは造作ないことだ。去年彼女を殺した時は、怖かった。そして、虚しかった。
「……何だよ」
「私を、殺して欲しいんだけど」
 あの日とほとんど同じ。あの目と全く同じ。
 澤田の表情も、公園で遊ぶ小学生の声も、蝉の声も、同じ。
 一つ違うのは、俺が二〇〇七年の世界から来たという事実のみ。
「何故?」
「生きているのも死んでいるのも同じような気がするから」
 はっきりと、澤田はそう言った。右手ではポケットをまさぐっている。おそらく五秒後にはカッターが出てくるだろう。
 そして、俺が澤田を殺さなければ俺は殺される。
何故未来から戻ってきたのか?
 せめて行動だけでも、かっこいい奴を超えたかったからじゃないのか?

 思った時には体が既に動いていた。
「ちょ……な、やめろ!」
 俺は即座に澤田の右手を掴み、カッターを引っ手繰った。
 そしてそれを窓の外に放り投げた。
「お前……止めろ! 畜生!」
 澤田は窓の方へ走った。俺は彼女の背中にがっしりとしがみ付く。
「放せ! 放せよ! 私は死ぬんだから!」
 澤田はひたすらもがく。俺は、それを必死で止める。
「あのなぁ澤田。お前が何で死にたいかはわからないし、俺がお前が死ぬのを止める理由もない。いや、強いて言えばな。今ここでお前を止めないと、永遠にカッコよくなれない気がするんだ」
 俺がそこまで吐き捨てると、澤田はもがくのを止めた。
 今まで俺が組みついていた背中は、ものすごく細かった。
「結局、自己満足のためなんだね、キョロ」
 澤田はガクリと膝を折り、少しだけ笑った。それから、泣いた。
「私は、キョロに殺されたかった。どうせ死ぬなら、キョロに殺されたかったんだよぉ。生きてる意味なんてない、ないなら死ぬしかないじゃん! 何で止めるの、何で死なせてくれないの?」
 ひたすら澤田はわめき続ける。俺はそれを黙って見ている。
 「……何で死にたいのか、教えてくれたりしないわけ?」
 泣いてる澤田に向って、最初に出た言葉がこれだ。つくづく俺って奴は馬鹿野郎だと思う。
「さっき言ったじゃん! 生きてるのも死んでるのも同じような」
「嘘だね」
 彼女が言い終わらないうちに俺は口をはさんだ。
「理由なんてないだろ。ただの欝病だ。そんな一時の発作で人生を棒に振るっての?」
 澤田の泣き声が、聞こえなくなる。
「何勝手なことを言っているのですか?」
 下腹部に違和感。猛烈に熱い。
 視界がだんだん狭くなっていく。視線を下へやると、腹に何か……カッターが突き刺さっていた。
「幸いカッターは三本あったのでね。残りの一本は私が死ぬのに使わせてもらう」
 視界が真っ黒になった。しかし、蝉の声は聞こえる。子供の声も、風鈴の音も、聞こえる。
「これもあなたが望んだこと。集団自殺チャットで会った時にキョロは言ったよね、一緒に死んでくれる人が欲しいって。私は一年前の今日、死ぬことができると思い喜々として出かけた。しかし、会った時あなたはこう言った。気が変わったと。もう少し生きてみたいと。最初からわかっていた、キョロが遊び半分で死にたいとか言ってるってことを。でも私は違った。死にたかった。でも一人は心細かった。だから、あなたに希望をかけていたのに!」
 澤田の奇妙な笑い声が蝉の声に混じって聞こえる。
 下腹部の痛みはだんだん無くなってきた。手には生暖かい液体の感触。おそらく血。
「最初にチャットで会った時のあなたの言葉は、忘れていない。一緒に死のう、約束だよ! と確かに言った。約束、守れそうだね。よかったね。ははは」
 澤田が言ったことは、全部事実だった。彼女と会ったチャットは、自殺志願者が集うチャットだった。
 チャットに出向こうと思った時、俺はサッカーの試合で自分のミスから負け、軽い鬱になっていた。そんな時に遊び心で訪れたのだ。
 その時澤田は言っていた。両親は私を邪魔者扱いする日々。何で学校へ行かないの。学校に行かない子供なんて、おかしいわ。うちの子が日本社会の底辺に位置するなんて。そうだ、この子はうちの子じゃないのよ。あなたは、うちの子じゃない。毎日浴びせられる罵詈雑言。本来守るべき者に、攻撃される苦痛。俺にはそんなこと、想像も出来ない。
 キョロと喋っている時間のために、生きている。そう言っていた。今でも、そう思っていたのであろうか。
俺はそんな鬱な澤田と一緒に居た。澤田は、死ぬことに対して本気だった。俺は全然そんなつもりはなかった。
中途半端だったのだ。いつでも、俺は。

「最後まで、かっこ悪かったね」
………死にきれない。
 このままじゃ、死んでも死にきれない。
 俺は、かっこよくなりたい。いや、かっこよくなる。
 姫を救う王子様がイケメンじゃなきゃいけないなんて、誰が決めた? 俺は、やってやる。
 澤田を、救う。
 
 意識が急速に戻ってきた。
 それと同時に激痛。耐えろ。耐えなければ。
 俺は渾身の力を振り絞って立ち上がり、澤田が自分の喉元につきつけているカッターを奪い取った。
「……くっ! まだ生きてたのか!」
 澤田は血まみれの俺と対峙する。
「何? 言っておくけど、私は死ぬのなんか全然怖くないんだよ?」
「嘘をつくなよ、澤田七世」
 激痛、激痛、腸が煮えくりかえりそうな熱さ。
 だが、俺はやる。ここで引くことは出来ない。
「本当に死にたい奴は、すぐに飛び降りでも首つりでも何でもしてるわい。仲間を集めたりしない。澤田、お前本当は孤独だったんだろ? 友達が欲しかっただけなんだろ? 一年間、お前は楽しそうに俺と会話をしていた。休みの日になるたんびに来てた。そして、現にお前は震えてるじゃないか!」
 眩暈がした。ここで倒れたら元も子もない。
 澤田を死なせない。自分でも理由はよくわからない。
 何のために過去に戻ってきたのか、今わかった。
「う、うっさい! 私の気持ちが、キョロにわかるはずがない」
「そうだろうな。俺にもよくわからないもの、わかるはずがないんだよ」
 澤田は今にも泣き崩れそうな表情だ。
「……キョロ、来年にはもう旭川に行っちゃうんでしょ。だから、寂しくなるじゃん。キョロが居ない生活なんて考えられない。キョロと離れ離れになるくらいなら、一緒に死んだほうがましなんで」 
 俺は澤田の頭を思いっきり殴った。澤田はその場に倒れこむ。気絶してくれていれば良いが。
「何勝手なことを言ってんだよ……人を巻き添えにすんな」
 五秒ほど様子を見た後、そろそろ自分の命が危ないと思い、一階の電話の受話器まで走る。
 そこで、一一〇。
「けがにんが、います」
 
 目の前が真っ暗になった。

*

「ご乗車ありがとうございます。このバスは深川経由、留萌行きで御座います。整理券を御取り下さい。なお、車内は禁煙となっております……」
バスのアナウンスで目が覚める。
 すでに終点、留萌駅前についていたところだった。俺は急いでバスを降りる。辺りは相変わらずの寂れた商店街。いつみても落ち着く光景。
 それにしても、すごい夢だった。タイムスリップしたり、殺されかけたり。澤田を殺してから今日でちょうど一年が経つのか。心のそこではまだ気にしているのだろうな、きっと。
念のため携帯電話で日時を確認。二〇〇七年、八月九日。大丈夫。俺は、今を生きている。
 家に帰ると、ポストの中に手紙が入っていた。ところどころにパンダが書かれた可愛らしい封筒で、しかも俺宛てだ。
 差出人は「澤田七世」
 破りたい衝動に駆られたが、俺は思い留まる。あいつが、何で生きているのか。
 しかし、見てみないことには始まらないだろう。覚悟を決めて、開封する。

  上妻キョロ様
 
 一年ぶりだね。お元気ですか? 私はすこぶる元気。風の便りでキョロは二週間入院するだけで助かったって聞いたよ。良かった。本当に良かった。キョロは最後の最後で私の甘さを指摘してくれた人です。
 今日は、あの時のことを説明しようと思って手紙を書きました。
 気がつくと、私は病院のベッドで寝ていたの。次の日には退院した。気絶していただけだったものね。キョロは集中治療室で治療を受けていた気がします。一切面会できないのが残念だった。
 私はあの日から留萌を去りました。正式には釧路にある祖母の家から中学校に通うことにした。留萌の学校は何か抵抗があったので。
 そして、友達が欲しかったんだ。キョロ以外にも、沢山。
 キョロの言った通り、私は死にたくはなかった。
 ただ、一年間こんな私に良く接してくれたキョロがどこかに行ってしまうのはやりきれなくて。明るく振舞おうとしても駄目でした。別れるくらいならキョロに殺してもらおう。そう思ってたの。
 あの時、キョロが私を必死に救おうとしてくれた時、私は嬉しかった。ありがとう。そして、殺そうとしてごめんなさい。私は今、ちゃんと高校に通っています。リストカットもやめました。
 キョロも高校生活、頑張ってください。
 それと、返事くれたら嬉しいな。
            
                    澤田ナナセ

    追伸:今度会うときは、名前で呼んで下さい!
 
  
 嗚呼、俺は本当に戻っていたのか。一年前に。
 あれは夢ではなかったみたいだ。
 今度会うのがいつになるかはわからないけど、その時はちゃんと名前で呼んでみたいと思う。
 そして、聞いてみる。「俺、あの時かっこよかったかな?」と。
 
「キョロ!」
 背後から声がした。
 振り向くと、そこには  何もなかった。
 気のせいか。
 今、ナナセの声がしたような。
 
 さて。
 手紙の返事を、書こうかな。

 子供の声と、蝉の声、風鈴の音、そして小さい笑い声が聞こえた気がした。




by 三浦マミ



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