部屋には、本と少女が。六畳程度の狭い部屋に、所狭しと本が積まれている。本棚はなく、全ての本が平積みにされており、俺が立っている出入り口から少女が座っている部屋の中心部分まで細いけもの道が形成されている。その他は、全て本。光は少女の傍に置かれたカンテラからしか放たれておらず、部屋は薄暗い。
 少女は、俺が来たことに気づいていないようだ。彼女は分厚い本を読んでいる。表紙には、日本語でも英語でもない、虫が這いつくばったような文字が書かれており、彼女はその本から一寸たりとも目線を離さない。時折響くページの音が、周囲の静寂を際立てる。
 ここで突っ立っていても仕様がない。俺は、覚悟を決めて少女の元へと歩みを進める。 
「あの」
 話しかけても、少女は顔を上げない。俺の存在に気づいていないのか、はたまた無視しているのか。
「ねぇ」
 肩を叩いてみた。瞬間、少女は稲妻が走ったかのように飛び上がる。高いとも低いともつかない声を上げながら、少女は私の方を見た。
「な、なな、な、なななな、」
 つい先ほどまで人形のように本を読んでいた少女とは別人のよう。彼女は、見ていて可哀想になるくらい狼狽していた。
「あ、ごめん。驚かせた?」
「な、な、なんで、人が居るの?」
 彼女が疑問に思うのも無理はない。俺は、彼女の部屋に無断で侵入したのだから。
「質問は沢山あると思うけど、とりあえず後にして下さい。俺は、あなたを救いに来ました」
「え?」
重い時間が流れる。人形のごとく固まる少女。俺は彼女の手を掴み、立たせようとする。
「ちょっと待って。状況が掴めない」
「ここを出てから話しますから」 
 彼女は動かない。顔には、怒りの色が垣間見える。
「ここは私の場所。だから、やめて」
 確固とした意思が、俺を立ちつくさせる。手を離し、それから少女の方に向き直る。
 少女は正座して、俺を見据えている。手を握りしめ、口は一の字となっている。
「座って。話を聞くから」

 *

 あの時、俺は図書室で本を読んでいた。昼休みはいつもそうだ。教室に居てもろくなことはないし、馬鹿な奴しかいない。あんなところには一秒たりとも居たくはなかった。教室での無駄話に時間を費やすならば、図書室の中で本を読んだ方が十二分に意義のある行動に思える。
 と、そんなことを思っているわけではなく、単に友達が居ないだけなのだが。教室で寝ているフリをしていたら「あいつ、いっつも寝てるよな」「馬鹿、あれは寝てねーよ。絡む奴いないからあーしてんだよ」「孤独って嫌だよな」と囁かれていたことにひどく傷ついて、図書室に逃げてきていたのだ。今思えば、最初から図書室に来ていれば良かったと思う。これほどの暇潰しスポットを探すのは難しい。本を読むもよし、仮眠をとるもよし、弁当を食べるもよし。いっそ授業間の短い休み時間にもここへ来たいくらいだ。
 そんなわけで、今日もご多分に漏れず本を読んでいた。図書室には俺しか居ない。図書委員さえ居ないのだ。完全な貸切状態。こういう日には、変わった本が読みたくなる。いつも現代の流行小説ばかりでは飽きてくる。俺は立ち上がり、図書室の最深部へ向かう。いかつい背表紙の本たちが鎮座しているスペースだ。古今東西の名作がずらりと並んでいる。普段も人がまばらな図書室の中で、この棚には人が来ることはほぼ皆無なのであろう、ものすごく埃っぽい。俺は壁を丸々一面占領しているそのコーナーを見渡す。背表紙は全て、紺か小豆色、稀に黒。夏目漱石、川端康成等の著名な文豪から、ソクラテスやデカルト、紫式部や松尾芭蕉まで何でもござれ。俺は 有島武郎の「生れ出づる悩み」に手を伸ばす。題名に惹かれたのだ。
   ……?
妙な違和感。
 視界の端に、何か真っ赤なものが映るのを感じる。伸ばした手を引っ込めて、俺は再び辺りを見渡すことにした。
 見渡す限り、本だ。後ろには小説の書架、前には名作が並ぶ。これと言って変なところは     あった。
 全集の棚の中に、鮮やかな赤色、いや紅色の本がひとつ。地味な色ばかりの本棚の中で、異様な存在感を醸し出している。俺の視線は、その本に吸い寄せられていく。気が付くと、俺は上から二番目の段に手を伸ばし、紅の本を手にとっていた。 
 ほんのり冷たく、埃で薄く灰色がかった紅。表紙も裏表紙も紅で、文字は書かれていない。背表紙には小さく「Dairy」と金色で書かれていた。
 だいありぃ、ですか。大抵の人は、この時点で「映画でよくある呪いの日記かもしれない」等と思うだろう。俺も「大抵の人」の一人だった。中をバラパラと捲る。白紙。狂おしいほど白紙。月日も書いていない。埃はかぶっているものの、真っ白だ。ますます不気味。何でこんなものが、図書室に。もしかして、これに文字を書いたら幽霊とコミュニケーションが出来るとか、ありがちな筋書きじゃないだろうな。最初の一ページを見てみる。本のページとは別に、紙が一枚、挟まっていた。
 何も考えずに、広げる。黒く、細く、汚い地図が記されている。
 その紙には、学校の一階と思しき見取り図が描かれていた。お世辞にも綺麗とは言えない。この地図を書いた人は定規を使わない宗教にでも入っていたのだろうか。細い曲線で構成された地図の中に、意味ありげなバツ印があるのに気がついた。太く、黒々と引かれたクロスマーク。その斜め上には英語で「library」の文字。
 果たして、これは何を意味しているのだろう。この部屋に、何が隠されているというのか。宝物か、爆弾か。はたまた幼稚な悪戯なのか。
 ただ、ひとつ確実なのは、俺の胸が高鳴っているということ。感情が高ぶるのは本当に久しぶりだ。俺はこの意味ありげな地図が持っている一縷の可能性を捨てきれなかった。
 
 *

「で、ここに至ったわけよ」
「………」
 少女は腕を組んで何かを考えている様子だったが、暫くすると俺の方へ向き直った。
「地図を発見してから、ここまでに辿り着くまでのプロセスは、いったいどうなっているの?」
「うーん……何と説明していいものか」
 あまり人に話せるようなことではないのだが。
「その日の夜に学校に忍び込んで、あらゆるところを探した。机の下、カウンターの下、あらゆる床、本棚の下。そしたら、一番奥の本棚の下に色が微妙に違う床があったんだ。不審に思って動かしてみたら予感的中、床は動いて階段が現れましたとさ、めでたしめでたし、ちゃんちゃん」
 少女の顔には、腑に落ちないという文字が見て取れる。  
「そんなに簡単に見つかるもの?」
「そりゃ簡単なわけない。六時間はかかったと思うよ」
「……まぁ、いいわ」
 お前のことを信用しきったわけじゃないんだぞ、という声が聞こえたのは気のせいだと思う。
「せっかくの来客だからね。何もないけど、ゆっくりしていって頂戴」
「え?」
 一瞬、彼女が異国の言語を話しているかのような錯覚にとらわれる。
「ここに閉じ込められてるんじゃないの?」
「え? 私って閉じ込められてるの?」
 
 十秒程の重い沈黙。

「何か……閉じ込められてるみたいに見えるよ、こんな隠し地下室みたいなところに居たら」
 少女はまたもや華奢な腕を組んで考えている。
「いや、私はここにしか居たことがないから、よくわからないんだけども。私って、閉じ込められてるのかな?」
 俺に聞かないでくれ。この子は、一体何者なんだ。
 純粋な好奇心が、骨の髄から湧き上がってくる。
「君は、一体何者なの?」
「私は私」
「……簡単な自己紹介をお願いしてもいいかな?」
 俺がそう言った後、少女は一瞬大きく目を見開いてから、怪訝そうに俺を見た。
「自己紹介を求める時は、自分から名乗る。それがマナーじゃない?」
 たしなめられた。それもそうだ。
「俺は、木下尚吾」
「………」
「……………」
「……それだけ?」
「駄目?」
 それしか言うことがない。名前がなかったら、本当に言うことがなにも無くなってしまう。
「まぁ……良いけどね」
 少女は俺の前に正座する。いたいけな顔。長い漆黒の髪。彼女は可愛い。非の打ちどころがない。苦言を呈するとすれば、表情が常に暗いことくらいか。
 少女は、正座して、腕を組んでいた。その状態で、三十分ほど経過したのだろうか。
 
 完全に停止した空気を、唐突に少女が切り裂いた。
「一般的に言われる『ヒト』との違いや、私が今まで何をしてた等を、話せばいいのね?」
 +

気がついたら、この部屋に居た。私の世界には、本と、蝋燭しかない。だから、ひたすら本を読んで過ごしてきた。物語、哲学書、歴史書、辞書、古文書、地図、百科事典。最初は日本語しか読めなかったが、独学し、今は十三の言葉を読むことが出来る。部屋の隅には階段があり、そこを下るとひたすらに広い空間に、約三十万冊の本が置いてある。
 本を読むこと以外に、出来ることは自分と話すこと。読書に飽きると、私は声を出して自分と会話した。ただし、二重人格ではないと信じている。思考を口にしていただけなのだから。
 本を読んでいくうちに、私は自分が人間ではないのかと思い始める。欲求、というものがよくわからなかった。睡眠、という行為がわからない。目を閉じても漆黒の闇が広がっているだけ。「一次的欲求」も皆無だった。
 わからないものは山ほどある。時間、世界、空、海、水、エトセトラ、エトセトラ。それに、生物。先ほどここに来た男を別にすれば、今まで人間はおろか、他の生物も見たことがない。
 事実とは何か。この世界とは何か。わからない。わからない。わからない。
 ただ知識は、私の頭に溜まっていった。私は次第に思考しなくなっていった。機械的に、本を読み続けた。 
 過去に、何のために本を読んでいるのか気にしたこともある。世界はこの部屋の外部に本当に存在しているのかと何度も疑った。
 部屋の右隅にある扉は、何をしても開かない。何千回、何万回引いても開かない。
 至った結論。それは、考えるだけ無駄。私は、本を読む人形と化していた。

 +

「へー」
 信じる、と言う行為は難しい。口先だけなら何とでも言える。しかし、心の底から信じている事柄などというものは数えられるほどしか存在しない。少女の話は、俄かには信じがたい。
「信じるよ」
 しかし、俺は少女の話全てを信じることが出来る。
「信じるって、何?」
「え……それは、」
 咄嗟に言葉が出ない。信じるという言葉を説明しろと言われたことなど生まれてこの方、無い。
「疑わない、ってことじゃないかな」
 少女は俺の目を凝視する。生まれてからずっと一人で居たのでは、信じるなんてわからないだろう。疑うなんてわからないはずがない。
「そう」
 予想と反して、少女は深く突き詰めなかった。疑うということを知っているのだろうか。
「それより、ねぇ」
 少女から俺に話しかけきた。 
 気づいたことが、一つ。少女の眼が心なしか、輝いている。勿論、比喩的な意味でだが。
「あなたはこの部屋の外から来たわけでしょ?」
「そうなるのかな」
「じゃ、この部屋の外の世界があるってことが証明されたわけね。今は西暦何年?」
「西暦? ……そうだね、二〇〇七年かな」
「あら、ここにある本で一番新しいもので一九〇九年だから……約百年間私はここに居た計算になるわね」
 だんだん早口になっていく少女。彼女の口調が、次第に「少女」らしくなっていく。すごく嬉しそうだ。表情の移り変わりが激しい。
 様々なことを聞かれた。
 外の世界の様子、水について、火について、自然について、人間について、他にも沢山。
 少女は驚いた。笑った。感心した。不思議がった。
 三十万冊の本を読んでも、わからないことがあるのか。そのことが妙に不思議に思える。

 何時間経っただろうか。気づくと、少女は泣いていた。笑いながら、泣いていた。
「……よかった。よかった。私、この世界には私しか居ないのかと、思ってた」
 しゃくりあげながらなく少女を、抱きしめてあげたかった。しかし、仮にも彼女の方が年上だ。俺は静かに見守ることとする。
 俺に彼女の気持ちはわからない。予想することも出来ない。
自分の他に誰も居ない世界が、どれだけ恐ろしいか。わかるはずもない。俺が物心ついたときには、父母や祖父母が傍に居た。外に出ると友達が居た。人が居ない場所なんて、無かった。
 十分程して少女が泣きやむと、また質問が始まった。俺は全然苦には思わない。むしろ、心から楽しんでいる。
 
 * 

俺の腹が音をたて、時間の経過に気付かされる。
「じゃ、俺はもうそろそろ帰るよ」
 御伽草子みたいなことはないと思うが、四時間は経っているはずだ。少し長居しすぎた。
「もう、帰るの?」
 少女は、寂しげな眼差しで俺を見る。
「また、会えるよね?」
「あぁ。明日にでもまた来るよ」
 少女はずっと孤独な世界で生きてきた。彼女が外の世界に出るのはまだ危険なように思える。
 百年間もこの密室に居た少女と言っても、誰がそれを信じるだろうか。それに、俺の家で一緒に生活できるわけでもない。
 なので、もう少し少女にはここに居てもらう。だが、一ヶ月以内に引き取り手を見つけるつもりだ。
 食糧も水も摂取しなくて良いから、ただ空間を提供するだけ。それに、万が一万策尽きても、ほったらかしておいたら少女一人でも生活していけそうである。

「木下尚吾」
 少女に初めて名前を呼ばれた。俺は振り返る。
「最後に一つだけ、良いかな?」
「あぁ」
 少女は、満面の笑みだった。彼女の笑みを見ていると心の闇が取り払われていくようだ。
「家族って何?」
 
 闇。闇がまた、俺の世界に。

 
 ∵ 
  
図書館で本を読んでいた。「読んでいた」というよりも「暇を潰していた」といった方が合う。四時の会議までは何もすることがなかった。流行りの文庫本を読みながら暇を潰す。溜息が自然と口から洩れた。小さい頃は、本を読むのが夢だった。今では、何の感慨もなく、惰性で文を追っている。
 右太腿に震動を感じた。反射的に手をやり、携帯電話を取り出し一連の動作で開く。Eメールが一通。母からだ。
「おじいちゃんが危篤です。すぐ戻って」
  
  *
 病室に行くと、そこには母と俺しか居なかった。奇妙な違和感。父方の祖父にも関わらず、父が来ていないのだ。全く、大人気ない。最後の時に、自らの子の顔を見ることが出来ない祖父の気持ちを考えると、胸が痛む。
 父は政府情報局の局長を務めている。仕事で、祖父の研究データを何度も強制徴収していたのを覚えている。身内くらいは見逃してあげれば良いのにと子供の頃はよく思ったものだ。
 
 ベッドの上の祖父は、まるで人形のようだ。生気が感じられない。つい一ヶ月前に会った時は元気だった。俺の就職祝いに高価な焼酎を一本くれた。そして、朝まで飲み明かした。祖父に俺の就職先は言っていないし、これからも言うつもりはなかったのだが、そんなことお構いなしに喜んでくれた。
「……大往生だったね、じいちゃん」
 横に立っている母に話しかける。
「そうね。年齢が三桁なんて、このご時世に滅多に居ないものね」
 母は淡々と言った。別段悲しむ様子もなく。かといって喜ぶ様子もなく。祖父の遺産は、無に等しい。全て政府が、父が持って行ってしまった。
「でも、寂しくなるかもしれないわね」
「じいちゃんには、お世話になったしね」
 言葉しかなかった。意味も感情も持たない言葉が、飛び交っている。
「ショウゴ」
 低く、震える声。予想されなかった人物の声。声の方向をに目をやると、祖父が微かに目を開き、俺を見ていた。
「な、何? どうしたの?」
 皮と骨で形作られた祖父の手が、小刻みに震えている。
「……よ…め…」
 祖父の手に握られた傷んだ茶色の封筒が、俺の足元へ静かに落ちた。

 * 
 祖父の葬儀は、行われなかった。遺体は父が勝手に大学病院に寄付してしまった。
 俺は祖父が死んでも、特にこれといった感情は湧いてこなかった。小さな頃、色々なことを教えてもらったのは漠然と覚えているのだが。
 俺は、封筒のことを誰にも言わないよう母に言った。母は、簡単に了解してくれた。彼女は、政府の情報統制政策に反対だった。若いころは近所の子供たちに字を教えていたらしい。そんな母が、何故父と結婚したのかは知る由もない。
 
 こざっぱりとした自分の部屋。六畳程度のその部屋には、日常必需品以外は何もない。良く言えば機能的、悪く言えば殺風景。部屋の中心に大の字になって、俺は封筒を見つめた。茶色の紙封筒で、何も書いていない。だが、酷く傷んでいる。祖父はこれに何を入れたのだろう。隠していた遺産か、孫である俺への遺言か。俺にはそのくらいしか思い当たる節がない。
 封筒の口を開けて、ひっくり返す。刹那、鈍い音。俺は目を疑った。錆ついた鍵が床の上に転がった。数瞬遅れて、音もなく紙が一枚踊るように床へ落ちた。
 七分の好奇心と三分の恐怖。俺は紙に手を伸ばす。紙は封筒よりもさらに痛んでいる。ゆっくりと、折りたたまれた紙を広げる。黒く細い線で、文字と地図が描かれていた。

このく にをた す  る      き       う
        け           ぼ
 
 祖父がこの字を書き殴った様子がありありと頭に浮かぶ。若いころ研究者だった祖父は、文字を書くことが出来るエリートだった。だが、五十年前から文字を書くことは一部の人間にしか許されなくなってしまった。無論、律儀にそのお達しを守った祖父ではないと思うが、文字を気楽に書くことは出来なくなったに違いない。よく書き方を覚えていたものだと感心する。
 文字の下には、黒い曲線で構成された歪な四角形が数個。それらは曲線で結ばれている。俺はそれを「地図」と認識した。四角の配置が、昔俺がよく探検した祖父の研究所と全く同じだったのだ。一番右の四角形に、赤色で太くバツ印がつけられていた。おぼろげな記憶が、徐々に蘇ってきた。
   
 *
   
「家族って何?」 
 俺の二メートル先に、少女が立っている。きょとんとした表情で、少しだけ首を傾げている。
 少女の首筋に手をそっと伸ばす。白く細く冷たい首筋。何がなんだかわからないのか、少女は驚いたような顔をした。手に力を込める。何かを深くに押し込む。そんな感覚。
「それはね、」
 色々な思いが交叉する。
「絶対に守らなきゃいけないもの、だよ」 
 最初に浮かぶのは、彼女の顔。俺が必死で言語を勉強している時にも、何も食べるものがなくても、俺の顔を見るといつも微笑みかけてくれた、彼女の美しい顔。俺が情報統制局の役人になったその日に、俺は彼女と結婚した。俺が役人になった理由の一つが、妻に本を読ませてやりたかったからだ。
 次に浮かんだのは、まだ幼い我が子の表情のない顔。俺は子供を政府の官僚養成学校に通わせている。幼い頃から文字を読ませてあげる為、俺と同じ思いをさせない為に。しかし、それが子供にとって幸せなのかはわからない。事実、俺は自分の子が笑ったのを見たことがない。
 そして現在。首を絞められた少女は頭を垂れている。どんな表情をしているかは窺うことができない。
 俺は家族の為にとは言っても、このいたいけで不幸な少女を殺すことは、出来る。
 この「生きる図書館」を保護するのは、国家に楯突くことと同意。ましてや世に解き放ちでもしたら、今の政府が壊れてしまう。勿論俺は殺され、家族も極刑に処されるかもしれない。
今の政府は圧倒的な軍事力も、綿密な統制計画を持っていない。人民を無知にし、抵抗を不可能としているのだ。言葉も数字も扱えない、二足歩行の猿たち。ただ食料を生産し、政府に納めれば生きることが出来る社会の上に、今の政府は成り立っている。だが、少女が人々に知識を与えでもしたら。時間はかかるかもしれないが、徐々に政府は崩壊する。
 本音を言えば、政府はどうでもよかった。俺自身のことも、関係ない。
 ただ、家族にまで迷惑はかけられない。それだけ。

 ただひたすらに、俺は、少女を作った祖父を恨む。
 一人の少女に、世界を救うという大役を果たさせようとした、幼稚な考えの祖父を。

 *
 
紗弓。話がある。
 もうお父さんは、ここに来れないんだ。
 
私だって、ずっと紗弓と一緒に居たい。でも、無理なんだ。奴らはもう、研究所の調査を始めている。ここが見つかるのも時間の問題だ。だから、この地下室自体を隠すことにする。でも、それに伴って誰もここには入れなくなる。
 
 そんなこと言わないでくれ。紗弓は私より高度な知能を持っているだろう? 私なんか比べ物にならない知識をもっているだろう? 紗弓は完璧なんだ。完璧な子は泣いたりしないよ。私は、紗弓が殺されるなんてことになったら、耐えられないからね。
 
 私は、お前をここから外に出す。約束だ。それまで我慢していてくれ。この腐った世界を救えるのは、紗弓だけだ。ここにある本を全て、読んでくれ。そうしたら私は、お前をここから出すよ。
  
 ごめんな、本当にすまない。私たちはずっと、家族だ。    

  *
 
 全身が経験したことのない感情が湧きあがってくる。あれから、五十年も経っていた。
 あの時、父は、私の記憶を全て封印したのだ。
 感情は涙と化して、目から止め処なく零れ落ちる。
 父の顔。父の声。父の手の感触。父の言葉の一つ一つ。父の研究を執拗につけ狙う組織の存在。鮮明に思い出す。言葉では形容できない感情が波のように押し寄せる。
 首が、軽くなる。
 視界の隅に動きを感じた。木下尚吾が、私の顔を見ながら後ずさりしているのが見える。
「……なんで、なんで、なんで」
 口を動かしているが、言葉にはなっていない。
 考えてみると、私に怯えているのかもしれない。人間は、首を絞めると「死んで」しまうらしいから。
「木下尚吾」
 私は顔が青白くなっている木下尚吾に近付く。
「あなたは、悪い人なの? 父の研究を狙う、悪い人なの?」
 瞬間、大きな音。思わず耳を塞いでしまう。左胸に衝撃を感じる。
 何が起こったかわからない。自分の声より大きな音など、これまで聞いたことがなかった。耳の中で音が反響している。
 後から微かに空虚な音が聞こえた。何か硬くて軽い塊が落下したような、音。
「ば……化け物……」
 麻痺している耳に、微かに木下尚吾の声が聞こえた。
 彼の方に目をやると、音の原因と思しきものが目につく。黒いL字型の物体。あれは確か「銃」といったはず。
 木下尚吾は銃を使ったらしい。あれは、何に使うものだったっけ。
「何故死なない。死ねよ、こんなの知らねぇよ。死んでくれよ! 畜生、あの糞ジジイ!」
 銃を床にたたきつけ、私を指さし、喚きちらす木下尚吾。また新しい感情がわき起こる。嫌な感じだ。初めて味わう、不快感。
「ねぇ、銃って何に使うの? 何故使ったの?」
 私は、床の銃を拾う。本より重く、冷たい。
「どうやって使うの?」
 木下尚吾が握っていた部位を握る。木下尚吾がそうしたように、眼の前に人物に向ける。
「死ね! 化け物! お前は人間なんかじゃない! 今の世の中で、お前はゴミだ、存在が罪なんだよ、だから、死ね、おい、やめろ、それを俺に向けるな! やめてくれ、おい、やめ」
 再び、大きな音がした。

 ∴

 8がつ9にち にちよーび
  
 きょーもしごとのかえりにせんせいのところえいった。せんせいはひろばでぶあついほんをよんでた
 ぼくわ おはよーといったらよるわおはよーじゃないわよこんばんわよとせんせいはいった いつみてもかわいい
 それからことばのべんきょーとさんすーおやった べんきょーわたのしーとおもます
 せんせいからもじおおしえてもらってから ぼくはせいかつがとてもたのしー しごとわつらいけどがんばれるのです
 それと きょうえらいひとにおまえわもうすぐしぬんだからすむばしょおかえろといわれました
 せんせい しぬってなんですか? 

「はい、先生。今日も日記書いてきたよ」
 老人はボロボロになった藁半紙を私に差し出す。
 ボロボロと言えば、彼の服は常に汚れている。顔もしわくちゃだ。しかし、この半年間で老人の表情は見違えるように変化した。
 今では、老人は常に幸せそうにしている。
「はい、どうも。毎日続けて、偉いわね」
「何で? 楽しいのに?」
 老人の言葉に妙に納得してしまう。それもそうだな。知識を体得するというのは本来楽しいものだ。
「……そうね。だんだん文も上手になってきたじゃない」
 そう言うと老人は、はにかむ様に笑う。あまりにも嬉しそうなので、私もつられて笑う。
 
 老人に一時間ほど日本語を教え、私は小屋へと戻る。
 教え子たちが立ててくれた小さな木造の小屋。時折子供たちが寒くないか心配しにくる。私は気温を感じないのだが、心遣いが「暖かい」。
 それより、もうそろそろこの町を出ようと考えている。半年の間、どれだけ探し回っても父は見つからなかった。様々な人に聞いてみたけれども、そんな人は知らないという。人々は、名前という概念がわからない。なので、私は父の顔の絵を紙に書かなければならなかった。
 昨日、ある少年から地図を貰った。それによると、ここから東に十五キロほど歩くと隣町へ辿り着く。今度はそこに行ってみようか。
 この頃、自分が焦っているのを感じる。何故だろう、時間は無限にあるというのに。今でも父はどこかで生活しているに違いないのに。
 私は、どれだけかかっても父を見つけてみせる。父が組織に囚われているなら、救ってみせる。そして聞く。何故、私が他の人間と違うのか。知らないというのは、気持ち悪い。
 しかし、あと少しだけこの町に居てもいいのではないか、とも思う。せめて、生徒たちに四則演算と初歩的な漢字を教えてからでも遅くはない。いきなりの別れほど、悲しいものはないのだから。
 
夜も更けてきた。私は、今夜も生徒たちの日記を読み始めることとする。彼らの日記は、どんな書物よりも面白い。最高の読み物だ。



by 三浦マミ



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