ひょんなところに、影に紛れて吸血鬼が来た。 私は別に驚かなかったのだけれど、彼は私がここに居るということにひどく驚いたみたいだった。まあ、普通の反応だと思う。 だってこの城には、もう私しかいない。数ヶ月前までなら数人生きていたかもしれない。けれどそれも死んだ。そして私は独りだ。 私は死なない。最後に食事を与えられてから、もう数年経つ。お腹が空いたとは思うけれど、何故か飢え死にしない。さすがに殺されたことはないけれど。 でも私は彼のような吸血鬼でもないし化物でもない、れっきとした人間だ。……少なくとも私はそう信じている。だってお父様もお母様も人間だもの。私をここに幽閉した張本人だけれど。 羽を休めに来たのだと、彼はそう言った。私は彼を興味深く見ていたけれど、彼も私を興味深く見ているようだった。 貴方はどこへ行くの? 光の無い、世界の果てへ。 どうしてそこへ行くの? 光のあたる場所に僕の居場所はもう無いんだ。 彼は月明かりさえ避けるように、闇に身を寄せていた。その様子はなんだか怯える子供のようで。 彼と私との距離は遠い。けれどたった二人だけの夜は静か過ぎて、遠く離れていても息遣いさえ聞こえるように思えた。 遠くから獣の遠吠えが聞こえる。 貴女はどうして独りでこの城に。 私にもわからない。だって周りの人が勝手に死んでしまうんだもの。 私は無表情で答えた。みんなみんな、私を置いて死んでいった。つまらない、私をおいてみんなどこへ行ってしまうの。 僕が怖くないのか。 貴方のことは本で読んだことあるわ。けれど、それだけで決め付けてしまうのは、あまりにも身勝手だと思わない? 生き物などくだらないものばかり。観察するだけその対象の醜さがわかるだけだ。 ずいぶん卑屈なのね、吸血鬼っていう生き物は。 私はくすりと笑った。けれど彼は視線を揺るがせただけで、めぼしい反応は返ってこなかった。 つまんない。私は、秘かに唇をとがらせた。 いいこと思いついた。ねぇ、私をここから連れ出してくれない? そうだ、これは千載一遇のチャンスに違いない。きっとこのチャンスを逃したら、私は外の世界を知らないまま干乾しになってしまう。 そんなの、絶対に嫌。孤独を知るためだけに、私は生まれたんじゃない。 それは、できない。 でも彼は私の意に反したことを言う。むきになって質問を浴びせた。どうせ貴方の都合なのでしょう? どうして? 貴方は飛べるわ。 僕は人を抱えて飛ぶことはできない。だから君を連れて行くことはできない。 そんな、私の全ての未来を壊してしまうようなことを言わないで。ねぇ、人のいるところへ連れて行ってくれるだけでいいの。お願いよ。 …………。 どうして、どうしてなの。貴方はきっと、外の世界を十分見てきたのでしょう。それは、厭になるほどに。 連れて行ってくれないなんて、そんなのエゴだわ。私の気も知らないで。 嫌いよ、貴方なんて。早く、世界の果てにでもなんなりと行ってしまえばいい! 貴方なんて大嫌いよ! はやく行ってしまいなさい。私の城から出て行って! 彼は、音も無く消えた。はっとして、慌てて窓を見上げると大きな蝙蝠の影が飛んでいくのが見えた。 私は、鉄格子の間からいつまでも名残惜しそうに夜空を見上げていた。 影が紺碧に溶けて、そしていつもと同じ夜になる。その瞬間、心臓が痛んだ。否、これは絶望だ。まるで、奈落の穴に突き落とされたような、自分すら見えない暗闇において行かれてしまったような。 嗚呼、篭から逃げ出した小鳥は、もうその手に戻ることはない。 (嗚呼、城から逃げ出した蝙蝠は、もう少女に会うことはない。) それから、私が彼に逢うことはなかった。 けれど、 いつまでも、いつまでもいつまでも、私は待っていた。また、あの夜が来ることを。 × × × × × 紺碧の空に紛れて疾走する。 羽はかじかみ、息は凍る。高いところを飛びすぎた。 なかば落ちるように高度を下げると、黒々とした森林の中に漆黒の城を見つけた。身体を癒そうと、城のベランダに降り立つ。 身体を霧に変え、錆びた鉄格子の間をすり抜ける。真っ暗な城内に、恐怖は感じない。むしろ、鉄格子の隙間から忍び入ってくる月明かりが恐ろしい。 城内に侵入した僕はひどく驚いた。なぜなら、僕と同じように闇に溶け込む人影を捉えたからだ。闇に慣れた瞳はたやすくその影を鮮明に見せる。一人の少女が、そこにいた。 こんばんは。 平然と、少女は闇と同じ黒のドレスの裾を持ち上げて礼をする。僕は驚きを隠せず、一瞬反応に困って返答できなかった。冷静を装い、ただ彼女を凝視する。月の色をした彼女の髪はひどくまぶしくて、思わず目を細めた。 黙っていると、彼女は不意に口を開いた。 貴方はどこにいくの? ひと時の戯れ。刹那の享楽。ここで会ったのも何かの縁だろう。小夜に彼女と語らうのも悪くない。返答を逡巡する。 光の無い、地の果てへ。 旅の理由を思い出して、僕はまたおそろしくなる。 誰も信じられなくなってしまったこと。光のあたる場所は、僕には辛すぎた。光に当てられて、僕のかたちははっきりと映る。けれどそれを知られるのが怖い。自分を知られるのが怖い。奥まで入ってくるな。誰も僕に近づくな。 それなら、こんな世界捨ててしまえばいい。痛みと苦しみばかりを押し付けられるために、生まれてきたわけではないのに。 思考が飛んで、僕は軌道を正した。そこでふと疑問が湧く。 貴女はどうして独りでこの城に。 私にもわからない。だって周りの人が勝手に死んでしまうんだもの。 死ぬということがよくわかっていないのだろう。彼女は事も無げに死を口にした。 そう、死など所詮逃避にすぎない。この現実からの唯一の逃げ道。だが僕は死に逃げたりしない。ただ、他人の居ない場所へ。殺伐と虚無の広がる、世界の果てへ。その場所こそが、僕の傷を癒せる楽園、そして人が最後に求める理想郷なのだ。 吸血鬼である僕を恐れずに、じっと見据える彼女を見返した。その灰色の瞳に曇りはなく、月光が差し込んでいる。 その眼球が一つの宝石のようで美しい。けれどえぐりとってしまったら、その光も無くなる。惜しいことだ。 僕が怖くないのか。 貴方のことは本で読んだことがあるけれど、それだけで決め付けてしまうのは、あまりにも身勝手だと思わない? 彼女は何も知らないようでいて、実は聡明だった。少し驚いた。 けれど僕はひねくれた返事を返す。 生き物などくだらないものばかり。観察するだけその対象の醜さがわかるだけだ。 ずいぶん卑屈なのね、吸血鬼っていう生き物は。 そうだな、それが僕の醜さなのかもしれない。 僕は鉄格子の間から見える月を見上げた。大きな満月だ。じっと見ていると、こちらに向かってきているように感じてしまう。むしろ、本当にそうなって世界が滅びてしまえばいいのに。全て粉々に砕け散って、跡形も無く、全てを等しく無に還す。素敵だと思った。 今日は月が綺麗ね。 彼女は僕の視線を追い、月を見て言った。僕は静かに頷く。 僕は月から目を離さず、口を開いた。 月には人を狂気に陥れる不思議な力があるんだ。 オオカミ男みたいになっちゃったり? そう。見る人を虜にして、狂わせる。そして誰もかれもを死にいざなう。 ねぇ、死ぬって怖いことなの? 昔、誰かが怯えていたのを見たわ。 いや。むしろ、死は幸せの一つなんだよ。多くの人は死を恐れるけれど、それは一番におそろしいことを知らないからだ。本当の孤独というものを知ったとき、人は死を幸福と思える――。 難しいのね。哲学的すぎて私にはわからないわ。 それでいいんだよ。 彼女の純粋さに安堵を覚える。もう少しここに居てもいい気がしてきた。けれど、時に無邪気は邪気よりも厄介になる。 彼女は無邪気に僕に言った。 いいこと思いついた。 嫌な予感がした。けれどそれは回避する暇もなく、するすると紡がれていく。 私をここから連れ出して。 ああ、やはり。 彼女は言ってしまった。僕は一気に興醒めした気分になった。 彼女は希望に満ちた瞳を輝かせて僕に迫る。その瞳を、今はえぐりとってしまいたい。 人のいるところへ連れて行ってくれるだけでいいの。 これから人のいない場所に行こうとしているのに、どうして町へ行かなければならないんだ。君の願いを叶えたら、僕の願いは叶わなくなってしまう。 それは、できない。 せめて、貴女が外の世界に汚されないように。貴女が無垢なまま、生を終えられるように。 君を連れてはいけないよ。 僕には君が眩し過ぎる。君に触れたら、きっと僕の蒼白の肌は焼け爛れて、醜い中身を晒してしまう。そんなのを君に見られたくない。 神よどうか赦して欲しい。私が少女の願いを犠牲にしまうことを。けれど、 嗚呼、無知ゆえに無垢な少女よ、その身と心に穢れなきことを! 貴方なんて嫌いよ! はやく城から出て行って! お望みの通りに、お姫さま。そしてさようなら。 僕は音も立てずに、姿を霧に変えてベランダへ出た。ちょっと振り向こうとしたが、やめた。きっと目に涙を溜めた姿が、わがままを言って後悔する表情が、僕の目に映るのだろう。けれど、それは貴女の選択であり、僕の優しさなのだ。 わかって欲しいとは言わない。わからなくていい。それが君の純粋を証明するのだから。 手すりに足を掛け、空を見上げた。美しい夜だ。僕の旅路に、僕の願いに幸あらんことを。 祈りながら、僕は飛びたつ。僕の黒い翼が、月光をさえぎって地上に影を落とした。一気に高度を上げて、また僕は凍れる夜空を疾駆する。 それから、僕が彼女に逢うことはなかった。 そうして、 いつまでも、いつまでもいつまでも、僕は飛び続けた。僕の願う世界が現れるまで。 終劇 by 灯芽々 |