白く曇った窓を、指が滑っていく。その軌跡の向こうで、車が行き交っているのが見えた。
 指が窓をなぞっている間にもうひとつ別の指が伸びてきて、同じように窓をなぞり始める。
 窓に綴られたのは、二つの名前。二つの名の間に支柱が立てられ、降る雪から避けるように支柱に屋根がついた。最後に、屋根の先端にハートを飾れば出来上がりだ。
 相合傘を前に、当の二人はうふふ、あははと笑いながら、互いに冷たくなった指先を暖めあう。正に聖なる夜にお似合いの、幸せなカップルだ。


 くだらない。
 僕は一言で吐き捨てた。無論、胸中で。
 バスの中で僕はつり革につかまりながら、目の前に座っているカップルを白い目で見下ろしていた。
 だいたい、今そうやって幸福であっても、どうせ近いうちにそんなものすぐ消えてしまうに決まっている。幸せな顔していられるのも今のうちなのだ。
 アナウンスが鳴り、僕は二人から目を離した。別に、空しくなったわけじゃない。次は僕が降りるバス亭だからだ。
 バスを降りて早速、雪にもつれて転びかけた。
 今日はクリスマス(正確に言えば、その前日)だ。なるほど除雪係の奴も、この聖なる日には仕事をさぼってもいいということか。
 この辺りはただでさえ除雪が入りにくい。そして今日という日も相まって、僕の機嫌は悪かった。
 ズボンについた雪を乱暴に払い、不満をそのままに雪を蹴散らしながら家路につく。そのとき、鼻の頭にじわっと冷たい感覚を覚えた。
「雪、降ってたのか……」
 誰に向けてでもなく、ぽつりと呟く。けれどそんな呟きもすぐ雪に染み込んで、何も無かったかのように静けさが舞い戻ってきた。言葉を発したことで、逆に空虚感が一層強くなる。それを振り払うように、僕は再び歩きだした。
 「しんしん」と降る雪……こんな擬態語をつくった古人は、きっと素晴らしく感受性が豊かな人に違いない。
天井に張られた紺色の布の更に遠くから、まさに『しんしん』と雪が僕の世界を覆っていく。街灯の柔らかい光が、降り積もった路地に落ち、雪に反射して垂れ幕のようにたゆたう。人気の無い路地は、まるで僕一人だけの舞台のようだった。そして同時に、僕はその広い舞台の中心に佇む孤独そのものでもあった。
 ふと、舞台の端っこに影を見つけた。誰の敷地でもない、ブランコ一つしかない小さな公園に影が佇んでいた。不審に思いながら、けれど何かに惹きつけられるように、影へと近寄ってみる。
 雪だるまだ。そうとわかった途端に、何故だか落胆した気持ちが湧き上がる。真っ直ぐ家に帰る気にもなれないので、僕はそのまま雪だるまの前に立った。
 目が不自然に離れている。鼻は指で穴を開けただけだし、頭には何も飾りは付いておらず丸坊主である。口と手と眉は枝で作られていて、間の抜けた顔に吊り上った眉だけが勇敢だった。
 雪だるまの横にベンチがあった。ベンチには雪が積もっていたが、片腕を使って一掃すれば木製の地肌が見えた。人ひとりが座れるくらいに雪を払いのけ、木製のベンチに座る。見上げれば、夜の闇で黒く染まった木々の枝が見えた。枝の影で亀裂が入ったような空を見たまま、長い息を吐く。白い息は枯れ枝の間をぬって昇って、夜空に溶けて消える。
 空の大きさに、このまま自分も溶けて消えてしまうのではないかとすら思う。自分の吐いた息と同じように、僕は僕よりも大きなものに溶けて、消えていくんじゃないか。
「……何考えてるんだ、僕は」
 一人だと、ろくなことを考えない。哲学とか、感傷に浸るとか、僕らしくない。ただの格好つけだ。
 考えと孤独を誤魔化すように、鼻歌を歌い始める。けれど思いついた歌はこれまたセンチメンタルなもので、僕は自己嫌悪した。今度は明るい歌を、と好きなロックバンドを思い出して鼻歌に乗せる。そのうちにだんだんノってきて、今にも口に出して歌いだしそうになった瞬間だった。
「音痴」
 ぼそっ、と声がすぐ近くから聞こえた。反射的に身を起こして辺りをきょろきょろと見回した。人が気持ちよく歌っているところに音痴だと言われ、腹が立たないわけではない。しかし自分でも歌は下手だと自覚しているから、その歌を他人に聞かれてしまったことの方が非常に恥ずかしかった。
 今の声が幻聴だと思いたい。僕は夜の住宅街に目を凝らして人影を探す。けれど、誰彼もこの近くに居る様子は無かった。ほっとして、ベンチの背に背中をあずける。
「ひどい音痴だなお前。こんな夜に、お前の歌は不協和音だろうさ」
 僕以外無人の公園にはっきりとした声が、雪にも消されず響いた。今度こそ僕は立ち上がって周りをうかがった。音痴だと言われた怒りよりも、驚きや恐怖の方が勝る。
「……だ、誰だよ……?」
「お前の横」
 ふっと横を見ても、雪だるまが一体だけだ。僕の半径一メートル以内には、少なくともそれしかない。
「横だってば」
 声は近くでする、けれど人影は無い。声のする方向へ顔を向けても、雪だるまがあるだけ。
「もしかして、お前……か?」
「おうよ」
「………………」
 僕は静かに驚いた。なんとなく受け入れる準備は出来ていたような、そうでないような微妙な感じだ。雪だるまが喋ると他人から言われれば否定するだろうが、当人になると信じざるを得ない。
 僕は雪だるまの正面に回りこんで顔を覗きこむ。なんだか中に人が入っているという気がしないでもない。けれど雪だるまを暴こうとは思わなかった。
「雪だるま、だよな?」
「まあな」
「最近の雪だるまって喋るのか?」
「何でも『最近』ってつけりゃいいと思うなよ。昔から喋ってるかもしれないだろ」
「でも僕は雪だるまが喋ってるとこ見たの、今日が初めてだ」
「まぁ、喋るのも面倒くさいからな」
「そんなもん?」
 その雪だるまは、非常に大雑把――もとい心が広いようで、細かいことは気にしない性質のようだった。
 それに今夜は何が起こっても不思議ではない夜のような気がしていた。この時は常識という概念が麻痺していたのだろう。僕はあっさりとこの事実を受け入れてしまった。
 僕は気分が落ち着いてきて、ベンチに座りなおした。
「クリスマスの夜に独身男が無人の公園で雪だるまとお喋り……これってどう思う?」
 彼に表情があったなら、皮肉っぽい笑みを浮かべていたに違いない。彼はそういう声色で僕に問いかけた。
「僕から見ても相当重症だと思うよ」
 もちろん誰のことかわかっていたけれど、僕は他人事のように言葉を返した。彼の口の端の部分が吊り上がる。器用なこともできるものだ。
「彼女とかいないのかよ?……もしかして彼女いない暦と年齢が同じってやつか」
「失敬な。彼女はいたさ。一年前はね」
 一年――正確に言えば今年の2月の前までは、僕には恋人がいた。そんなこともあったと、僕は苦笑を零した。
「……悪いこと聞いたかね」
「いや、別に……」
 一時的に会話が途切れ、二人とも口をつぐんだ。次に口を開いたのは……僕だった。
「『つまんない』って言われて、捨てられちゃったんだよ。僕みたいな男に、刺激を求める方がどうかしてるのに」
 自虐的な笑みを浮かべ、僕は恍惚とあの時を思い出しながら喋っていた。頭のなかでリピートされる、別れ際のやりとり。
「大して綺麗な子でもなかったけれど、自分を着飾ることに熱心だった。僕もそれに同調して、貢ぐような真似もしたこともある……」
 ほとんど自棄だ。相手が人間では無いのが僕をそうさせたのか、他人もはばからず口が緩む。
人間は、信用できない。けれど、今なら、こいつになら白状してもいい。王の秘密を虚穴に叫ぶように、僕はあの時の心情を雪だるまに吐露していた。
「散々僕を使い減らして、最後には『さようなら』だ。これが物語なら、どんな喜劇だろう。いや、僕が愚かなだけで、悲劇にすらなりもしない」
 雪だるまは黙って聞いている。いや、もしかしたらもう〝ただの〟雪だるまに戻っているのかもしれない。でももうどちらでもよかった。
「結局、彼女とは自然消滅した。最後に交わしたメールには、『貴方といてもつまらない』と打ってあった。結局はそれが僕なんだ」
 僕はそう締めくくった。全て吐いたあとには、その空虚に冷たい空気が入り込んで、全身が冷たくなるような感じがした。けれど、その前よりもずっといい。半端な温さ――熱さと冷たさの狭間で、この身が壊れそうになるよりは。
 僕はもう家に帰ろうと思った。なんだかすっきりした気がして、それだけで満足した気分だった。そして僕が腰を浮かしかけたとき、彼が僕を呼び止めた。
「それでいいのか」
 はた、と僕の時が止まる。心が裏っ返るような、釣り針で心の奥底から何か大きなものをひっぱり上げるような不思議な感覚。
 僕がずっと問いかけてきたもの。自分自身に。
「それでいいのかよ」
 少し怒ったような口調。相変わらず動きの少ない雪だるまは、ずっと公園の隣の家の壁を見ている。けれど、射抜かれているような気がした。じっと、真摯な目で見られているような気がした。
「どうしろっていうんだ」
 気分の良いまま帰りたかった僕は、子供がするように質問返しをする。相手を黙らせるための最終手段だ。けれど、僕の意に反して彼は静かに言の葉を連ねた。
「このままだと、お前ずっと同じなんだろう。進むこともせずに、いじけているだけなんだろう。諦めているだけなんだろう」
 ぐっと、息を詰まらせた。腫れ物をつつかれているような苦痛が、咽喉の奥から湧き上がる。と同時に、憤りを覚える。
「お前に何がわかるんだよ」
「お前の態度見てりゃわかるっつの。『自分は駄目な人間だー』って思い込んで、向上心ってやつが無くなってる。お前はそのまま朽ちていく気なのか?」
 そんな風にはなりたいとは思っていない。睨むように目に力を入れて、雪だるまを見返す。
「お前は自分を見限りすぎだよ」
 ひどく優しい声色で、不意を突かれた僕は思わず泣きそうになった。そのまま僕は声を失って、少しの間彼を穴が空きそうなほど見つめる。
「今夜はもう帰った方がいい。冷えるからな」
「…………」
 僕は何も言えなかった。黙ったままふらふらと公園の出口まで歩いて、そこから一度振り返った。ぽつりと、雪だるまがある。相変わらずそこにある彼は、ひどく孤独に見える。白い景色の中に、溶けてしまいそうに儚い存在のように思った。
 けれど僕は自分のことだけで両手がいっぱいで、名残惜しげに思いながらも顔を背けて今度こそ家路についた。


 そこからはあまり覚えていない。大粒の雪が降ってきて、目の前が真っ白になって―――そして気付けば布団の上で寝ていた。
 開けっ放しのカーテンから強い日差しが、僕の狭い部屋を隅々まで照らしている。いっそ刺すような光に、目を開けた僕は思わずまた目をきつく閉じた。
 夢。
 僕は夢を見ていたのか。
 手のひらを朝日にかざす。僕の手の影がくっきりと浮かび、黒々とした存在感を出していた。
「寒っ」
 寝惚けていた僕は、そこでやっと部屋の寒さに気付いて慌ててストーブを付けた。
 部屋が暖まるのを待ちながら、僕は夢のことを反芻していた。反芻しながら、僕は気分の良さを覚える。僕の心に溜まっていた灰汁。それが取り除かれたような。それはきっと夢のせい。
この夢は、彼はあの一夜の贈り物だったのかもしれない。今ならサンタクロースを信じてもいいとさえ思える。でもさすがにそれは馬鹿げていて、思わず一人で笑ってしまった。
 まだ部屋は暖まりきっていないけれど、僕は布団から抜け出して窓から快晴の空を見上げた。肌寒さがまとわりつくけれど、今はそれよりも。
 今日も何も予定はないけれど、今日はどこかへ行こう。
 決意と共に、その中に希望を見出す。そして僕は願った。
来年も彼に会えるといい。今度はもっと色んな事を話せるように。



by 灯芽々



inserted by FC2 system